ゲッツ塔/ハイルブロン
( Götzenturm / Heilbronn)
 別称  : ゲッツの塔
 分類  : 都城
 築城者: ガイエル家ないしフェルトナー家
 交通  : ハイルブロン中央駅より徒歩5分
 地図  :(Google マップ


       <沿革>
           ハイルブロンの原型となる町の名が記録に現れるのは、741年のヴィラ・ハイルブルンナ
          (villa Helibrunna)というのが初出とされる。カロリング朝フランク王国(751~817)の末期
          ごろから、カルフ伯家が治めていた。
           11~12世紀ごろには、ネッカー川の河港や街道の交わる商業の中心地として発展した。
          フランク王国の分裂後、統治権は転々としていたが(主にさまざまな修道院(Heilbronner
          Pfleghöfe)が治めていた)、1225年にドイツ騎士団がハイルブロンを領有することとなった。
          エラー家とルートヴィン家が主導的立場に就き、この年にハイルブロンは初めて防衛施設
          をもつ都市(オッピドゥム/Oppidum)と呼ばれた。
           1281年には神聖ローマ皇帝ルドルフ1世から都市権を与えられ、1371年には帝国自由
          都市に昇格した。ゲッツ塔が築かれたのは、これから間もない1392年とされる。塔の名前
          の由来となったゲッツ・フォン・ベルリヒンゲンは、16世紀前半にホルンベルク城を拠点に
          活動した盗賊騎士で、1519年にハイルブロンも属していたシュヴァーベン同盟との戦いに
          敗れ捕えられた。彼はハイルブロンに3年間幽閉されたが、その場所はゲッツ塔ではなく、
          当時「魔女の塔」と呼ばれていた現在のボルヴェルク塔とされている。ゲッツ塔の名は、
          後世にゲーテが著した戯曲『鉄の手のゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』にちなんだものと
          される。1525年には、ハイルブロンはドイツ農民戦争の一揆勢に襲撃された。
           1618年に始まる三十年戦争ではハイルブロン周辺が主戦場の1つとなり、スウェーデン
          やフランス、プファルツ選帝侯などの軍勢がハイルブロンを占領した。続くプファルツ継承
          戦争では、1688年にフランス軍によって占領された。フランス軍が同年に撤退すると、
          ハイルブロンは再び帝国自由都市の地位を取り戻した。
           以後ハイルブロンが戦場となることはなく、近代化の進展とともにいくつかの塔を残して
          城壁などの防御施設は撤去された。

       <手記>
           ハイルブロンはネッカー川中流の中核都市で、南北の水運と東西の街道が交わる交通
          の要地にあります。ネッカー川沿いに南進してきた古城街道は、ハイルブロンで東に直角
          に折れます。ハイルブロンとその周辺には城壁や堀は残っていないものの、塔がいくつか
          残っていて、比較的中世の都城の香りを感じることができる町です。
           ゲッツ塔はハイルブロン旧市街の南西隅に位置し、中央駅から最も近いところに残って
          いる塔です。ほかの塔もできるだけ回りたいところでしたが、中央駅での乗り換えの待ち
          時間を利用しての観光だったため、この塔しか見ることができませんでした。ゲッツ塔と
          いう名は上述の通りゲーテの戯曲によるもので、塔に閉じ込められたゲッツはそのまま
          若くして死んだということから、そのイメージに近いという理由で命名されたようです。実際
          のゲッツは、ホルンベルク城主として82歳の天寿を全うしています。
           塔自体も近世に改築が加えられているようですが、砂岩を用いた特徴的なフォルムは、
          我々日本人の抱くいわゆる西洋の城塔のイメージとよく合うものであるように感じました。
          残念ながら内部は一般には公開されていないようです。

 ネッカー川対岸からゲッツ塔を望む。
おまけ:ハイルブロン市庁舎。 


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