平泉寺(へいせんじ) | |
別称 : 白山平泉寺城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 霊応山平泉寺 | |
遺構 : 土塁、石積み | |
交通 : えちぜん鉄道勝山駅よりバス、 「平泉寺神社前」下車 |
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<沿革> 養老元年(717)に白山の修験道僧泰澄によって開かれた平泉寺は、白山信仰の 山伏や僧兵の拠点となった。平安時代後期には天台宗の門下に入り、源平合戦に ともなう寿永二年(1183)の火打城の戦いでは、平泉寺の長吏「斎明」なる人物が 平家方に属したことが、『平家物語』に記されている。斎明は同年の俱利伽羅峠の 戦いに敗れて処刑されたとされるが、平泉寺はこのときまでには武装集団としての 勢力を有していたとみられている。ただ、寺院そのものが要塞化されていたのかは 定かでない。 元弘三/正慶二(1333)、鎌倉幕府打倒を掲げて足利高氏(尊氏)が京の六波羅 探題を攻め落とすと、平泉寺門徒は大野郡牛原の地頭北条(淡河)時治を襲撃して 殺害した。その後、南北朝の動乱を経て、戦国時代初期ごろまでには石垣や堀で 囲まれた要塞へと発展したものと考えられている。 15世紀後半に、応仁の乱を経て朝倉氏が台頭すると、平泉寺は同氏に接近した。 朝倉氏の求めに応じて援軍を出すこともあり、天正元年(1573)には寺内の一坊を 預かる波多野玉泉坊が浅井長政の援軍として派遣され、小谷城の支城丁野城を 守っていたが、織田信長軍に攻められ降伏した。 同年中に一乗谷館が灰燼に帰して大名朝倉氏が滅びると、玉泉坊は信長に取り 入って平泉寺の支配権を獲得した。これをよく思わない、飛鳥井宝光院をはじめと する平泉寺の諸坊諸院は、翌二年(1574)に朝倉旧臣の富田長繁が蜂起した混乱 に乗じて玉泉坊を攻めて殺害した。 宝光院らは大野郡を支配する土橋信鏡(朝倉景鏡から改名)と結んだが、長繁の 反乱から発展した一向一揆が大野郡に攻め入り、信鏡は居城の亥山城を棄てて 平泉寺へ逃れた。同年四月、平泉寺と信鏡は一揆方の村岡山城を攻めたが、その 間に平泉寺そのものが一向一揆勢に攻撃された。信鏡・宝光院らは平泉寺に引き 返したが、敗れて両名とも戦死し、寺も戦火によって全山が焼失した。 平泉寺自体は天正十一年(1583)に再興されたが、城塞寺院としてはこのときの 焼き討ちをもって終焉した。 <手記> 中世の平泉寺は山号を霊応山といい、最盛期には6千坊に僧兵8千を数えていた といわれています。明治の神仏分離・廃仏毀釈を受けて「平泉寺白山神社」となり、 寺院の建物は撤去されました。そのため、現在は苔と木立の中に石畳や石垣が 連なる遺跡のような風景になっています。この風景はこれでとても神秘的かつ森閑 としていて、多くの観光客を惹き付けています。 要塞化された寺院ということで、伽藍跡の段築を囲む土塁や石積みが遺構という ことになりますが、どこまでが城砦のそれかというのはなかなか判断が難しいところ です。一番それと分かるのは、境内入口の精進坂手前の茶屋脇にある土塁です。 境内に残る土塁や石積みに比べて高々としていて、その下にはちゃんと説明標柱 があります。 門前にはいくつかお店があり、なにより広々として爽やかな空間なので、城跡に 興味のない人を連れていくにもおすすめの観光名所といえます。 |
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境内のようす。 | |
伽藍跡の段築。 | |
伽藍跡の土塁。 | |
御手洗池。 | |
精進坂下の土塁。 | |
土塁下の石積み跡。 |