小谷城(おだに)
 別称  : 大谷城
 分類  : 山城
 築城者: 浅井亮政か
 遺構  : 石垣、土塁、堀、虎口、井戸跡
 交通  : JR北陸本線河毛駅よりバス
       「小谷城址口」バス停下車


       <沿革>
           湖北の戦国大名浅井氏の居城として知られる。戦国大名としての浅井氏は浅井亮政に
          はじまるとされ、小谷城も亮政によって築かれたといわれるが確証はない。亮政は浅井氏
          庶流蔵人家の出身で、本家浅井直政の娘婿となったと伝わる。直政以前の浅井氏の系譜
          や本拠地については明らかでない。
           築城年についても、諸説あり確定をみてはいない。『浅井三代記』によれば、永正十三年
          (1516)に築かれたとされる。しかし、『三代記』は寛文年間(1661〜72)に成立した軍記的
          要素の強い文献であり、史料的価値は低いとされている。城内の曲輪の1つである京極丸
          について、亮政が主筋にあたる京極高清を大永四年(1524)にこの曲輪に迎え入れたこと
          から名付けられたとする伝承があり、一般には城自体も同年に築かれたものと考えられて
          いる。亮政は、この前年に高清の次男高吉を後継に推す上坂信光と対立し、浅見貞則らと
          嫡男高延を擁して高清・高吉父子および信光を尾張へ追放していた。その後、亮政は貞則
          とも対立したため、高清と和解して大義名分を得ようとしたものとみられる。小谷城が高清を
          迎える際に築かれたものであるかはにわかに判じ得ないが、同三年(1523)に始まる国内
          緊張のなかで、山城の必要性が出てきたというのは十分に考えられる説明である。
           史料上は、大永五年(1525)に六角定頼が小谷城を攻めたとするものが初出である。した
          がって、小谷城は同年までに築かれたとするのが、現在のところ表現上もっとも正確である
          といえる。このとき、亮政は越前の朝倉氏に救援を求め、朝倉宗滴が援軍を率いて後詰に
          現れた。三者の睨み合いは5か月におよび、宗滴が滞陣した峰は「金吾嶽(金吾は宗滴の
          官職名左衛門尉の別称)」と呼ばれるようになった(後の金吾丸)。この戦いで抗しきれなく
          なった亮政は、いずこかへ姿をくらませた。後に、経緯は不明だが、高清とともに小谷城に
          復帰している。
           その後も、亮政は六角氏や北近江国内の反対勢力、主筋の京極氏などとの攻防に追わ
          れることになった。天文三年(1534)には高清・高延父子と和解し、亮政が両名を小谷城で
          饗応したことが記録に残っている。同七年(1538)に高清が世を去ると、高吉を擁した定頼
          が好機とみて大攻勢に出た。小谷城は再び六角軍に囲まれ、亮政は美濃へ落ち延びた。
          しかし六角勢が帰陣すると、亮政は国人たちの支持を得て小谷城へ復帰した。このあたり
          は、観音寺城を落去しては復帰する六角氏自身のやり口と類似しており、国人勢力の強い
          湖国近江における大名の性格をよく反映しているように思われる。
           天文十一年(1542)に亮政が死去すると、長男久政が跡を継いだ。久政の代に、城内に
          「六坊」と呼ばれる、領内の有力寺社の出張所が設けられた。永禄三年(1560)、久政は
          嫡男長政に家督を譲り、小谷城内の小丸に隠居したと伝えられる。
           長政は、織田信長の妹お市を娶って同盟を結んだ。信長が元亀元年(1570)に浅井氏と
          同盟関係にあった朝倉氏を攻めると、信長から離反して敵対した。浅井・朝倉両氏の追撃
          を逃れ、体勢を立て直した信長は、まず浅井氏を討とうと小谷城に迫り、城下に放火した。
          朝倉義景の援軍がやってくるなか、小谷城の力攻めは無理と判断したのか、信長は一旦
          兵をまとめて横山城攻略へ転進した。朝倉景健率いる援軍が到着すると、浅井・朝倉連合
          軍は姉川を挟んで織田・徳川連合軍と対峙した。六月二十八日早朝、世にいう姉川の戦い
          が勃発し、浅井・朝倉勢は敗れ、長政は小谷城に籠城した。信長はそのまま小谷城攻めに
          かかることはせず、横山城を対の城として取り立て、羽柴秀吉を司令官として置き、岐阜
          帰還した。
           同年九月、長政は志賀の陣で朝倉氏とともに攻勢に出たものの、翌元亀二年(1571)に
          佐和山城を守る重臣磯野員昌が織田氏に降伏すると、家臣の寝返りが相次ぎ、徐々に
          小谷城への接近を許した。天正元年(1573)に山本山城主阿閉貞征が寝返ると、小谷城
          包囲網は一気に狭められることになった。信長自ら大軍を率いて出陣し、まずは朝倉勢の
          救援ルートである北国街道を封鎖した。小谷城北西の焼尾の砦を守っていた浅見対馬守
          が寝返ると、織田勢はそこから尾根伝いに小谷城背後の大嶽砦を急襲し、守備していた
          朝倉勢を追い落とした。これにより小谷城救援は不可能とみた朝倉義景は撤退を図るが、
          信長勢の執拗な追撃を受けて敗走し、そのまま浅井氏に先んじて滅亡した。
           こうして後顧の憂いを断った信長は、全軍をもって小谷城への総攻撃にかかった。九月
          二十七日、秀吉軍が清水谷の間道を伝って京極丸を急襲し、一族の浅井井規の寝返りも
          あり、小丸の久政は自害した。本丸はなお持ち堪えたが、衆寡敵せず同月二十九日ないし
          十月一日に落城し、長政も自刃した。
           北近江三郡は秀吉に与えられたが、秀吉は小谷城を廃して長浜城を築いた。小谷城の
          残った建材は、長浜築城に転用された。


       <手記>
           小谷城は、小谷山の頂部ではなく支尾根上に築かれており、小谷山山頂には大嶽砦が
          あります。亮政時代の小谷城は大嶽砦を主体とするものであったとする推測もありますが、
          初期小谷城の実態については詳らかでありません。小谷山自体は、北東の細尾根のみが
          北の山田山とつながっていて、ほぼ独立した山塊であるといえます。逆に、織田軍にこの
          山田山まで回り込まれてしまったことで越前との連絡は完全に断たれてしまい、城の命運
          は決したといわれています。
           浅井氏悲哀の城であり、信長の天下布武のなかでも最大級の城攻めが行われた堅城
          でもあり、大河ドラマなどでもお馴染みの茶々・初・江3姉妹の故郷でもあり、秀吉の出世
          躍進の舞台でもあるということで知名度も高く、小谷山全体に登山道が整備されています。
          余力のある人は麓から登っても良いと思いますし、ハイキング客もちらほらと見かけます。
          金吾丸の麓まで車道も通っているので、私はここに車を止めて訪城しました。
           広義の小谷城は、大嶽砦や小谷山全体に広がる支砦群を含めた広大なものです。狭義
          の小谷城は、前述のとおり大嶽砦南東支尾根部分を指します。このとき私は、金吾丸から
          大嶽まで登って引き返すというルートをとりましたが、1日がかりでハイキングするつもりの
          方には、麓から登って大嶽を経由し、南西尾根の福寿丸・山崎丸を通って下りてくるのが
          一般的なようです。
           狭義の小谷城についても、主城域はさらに本丸を中心とする南側と山王丸を頂点とする
          北側とに分けられます。学習研究社『戦国の堅城U』では、この南主城域を「主陣地」、北
          主城域を「絶対確保域」と呼んでいます。執筆者の樋口隆晴氏は軍事マニアなのか、城郭
          研究では耳慣れない軍事用語を好んで使用したり、中近世城郭を要塞としての視点でしか
          見ようとしないきらいがあるように思われます。樋口氏に対する私の見解は、観音寺城に
          ついての同氏の通説批判に対する反批判という形でこちらに掲載しています。ここでは、
          以下便宜上「南主城域」「北主城域」で通します。
           金吾丸背後の谷に番所があり、ここから南主城域がはじまります。番所の奥は、御茶屋・
          御馬屋と曲輪が続きます。御茶屋には、何に使用されていたのかにわかには判じがたい、
          小規模な土塁に囲まれたスペースがあります。御馬屋はちょうど樹木が伐採されたばかり
          のようで、これから整備が進んで琵琶湖方面への眺望が開けるのだろうという感じでした。
          御馬屋の付け根には馬洗池があり、その名のとおり飲用というより用水兼水濠として使わ
          れていたものと推測されています。御馬屋の上に桜馬場があり、ここは東西2段に分かれ
          ています。1段低い西側の先端が、私が訪れたときには狭義の小谷城内でもっとも眺望が
          開けているところでしたが、訪城ルートからは陰になって見えない曲輪なので注意が必要
          です。
           桜馬場の上が大広間で、虎口には崩れた石垣の残る黒金門跡があり、当時は入城者を
          圧倒する威容を誇っていたものと推測されます。大広間は城内最大の面積を有し、整然と
          並んだ礎石群が発掘されていることから、名称どおりの殿舎建築があったものと推定され
          ています。いわゆる、籠城に際して長政やお市、と娘3姉妹らが寝泊まりしたところと解され
          ていて、哀史を求めて訪れた人にとっては最も歴史ロマンを感じるところといえるでしょう。
          大広間の奥には、石垣の下部が残る本丸跡があります。本丸とはいっても面積は小さく、
          江戸時代の絵図にも「天守共 鐘丸共」と記されていたようで、実際には大広間とセットで
          本丸と捉えられていたのではないかと思われます。現地の説明板では天守建築があった
          のではないかと推測していますが、私はこんな険阻な山上の、さらに引っ込んだところに
          高層建築が必要だったとは思えず、あったとしても井楼程度のものだっただろうと考えて
          います。より興味深いのは、本丸の両サイドに竪土塁が延びており、西側のものは石垣で
          固められ、その上に虎口門が乗っていたものと思われる点です。北側からの侵入を阻止
          する施設であることは論を待たないでしょうが、中世の山城では珍しい形態であると思い
          ます。本丸背後に大堀切があり、ここで明確に主城域を南北に分断しています。
           北主城域について、先に私個人の見解を述べますと、久政の代までの初期小谷城は、
          こちらが中心部であり、長政の代になって南主城域が築かれ本丸も移ったのではないか
          と考えています。理由としては、まず第一に北主城域のピークである山王丸は、南主城域
          の本丸より高所に位置し、山王丸の南を除く三方は本丸の四周より格段に傾斜が険しく、
          中世城郭の本丸にふさわしいという点が挙げられます。第二に、北主城域には京極丸や
          小丸、六坊など、久政以前に由来する曲輪名が集中している点です。第三に、清水谷の
          根小屋からの登城路と思われる秀吉の攻城ルートが、京極丸の下に通じているという点
          です。最後に、北主城域の縄張りは、南主城域に比べて単純であるように思われます。
          これらの状況証拠から、初期の小谷城は北主城域と大嶽砦からなる城砦であり、長政の
          代に南主城域をはじめ、小谷全山を城域とする巨城へと発展していったとみるべきでは
          なかろうかと考えています。
           北主城域の南限は中丸ですが、ここは平入りの虎口と低い石垣で囲まれた小規模な
          曲輪が段々に連なっています。雰囲気としては、城郭というより寺社に近く、寺社勢力の
          出張所をまとめて六坊を設けることに成功した久政が、寺社の技術を借りて拡張した部分
          なのではないかな、と推測しています。中丸の上には京極丸があります。城内最大級の
          高土塁が残り、面積もそれなりにある曲輪なのですが、京極高清がもしここに寝起きして
          いたとするならば、「迎えた」というよりは幽閉に近いように思います。おそらくは、籠城時
          に高清父子がいたところ、というのがせいぜいでしょう。京極丸の上は、久政が自害した
          小丸で東西2段になっています。どちらに久政の館があったのかは不明ですが、一般に
          いわれる切腹のシーンにしたがうなら、館には庭が付いていたことになります。小丸から
          東サイドを奥に進むと、小谷城最大といわれる大石垣があります。小丸の上は、数段の
          削平の不明瞭な曲輪を経て、山王丸へ至ります。山王丸背後の急崖を下りると、六坊が
          あります。領内の有力寺社の出先機関を6社も集めることに成功したというのであれば、
          久政には六角定頼にも劣らぬ政治センスがあったと、個人的には思っています。近年、
          久政については再評価が進められているということですが、彼がこうしてしっかり地固め
          をしていたからこそ、次代の長政の飛躍があったのだと感じます。
           六坊裏手から、大嶽へ登らず山肌沿いの脇道を少し下っていくと、月所丸と呼ばれる
          前後2段の曲輪群があります。ここは、浅井氏ではなく朝倉軍による造作とみられていて、
          近年にわかに脚光を浴びているところです。尾根伝いに山田山を経由して越前へと至る、
          浅井-朝倉最終連絡ラインの入口にあたり、対信長籠城戦における小谷城の急所といえ
          ます。そのため、月所丸は小谷城内でもっとも新しく、もっとも完成された曲輪とみられて
          います。事実、尾根筋には2条の堀切が穿たれ、山肌沿いの進入路には幾条もの畝堀が
          連なる特徴的な縄張りをもっています。
           翻って南主城域の南に目を向けると、金吾丸は上下3段ほどに削平され、周囲を土塁が
          巡っています。縄張り上の特徴はみられませんが、最下段東脇の虎口跡が、城内では
          もっとも明瞭に残っているように思われます。
           小谷城は、中世城郭のなかでは各曲輪ごとのエピソードが格段に残っているという点
          でも、歩いていて飽きない城跡であると思います。また、おそらく対信長籠城戦に際して
          設けられたと思われる膨大な腰曲輪群も印象的で、傾斜下をのぞくと、そこにはいつも
          何かしら曲輪跡があります。小谷城が本当に見るべきところの多い城跡であることは、
          当サイトのなかでも、とりわけ膨大な写真掲載数と長大な文章(冗長になっていないか
          心配です…)を誇っていることからも明らかかと思います(笑)。

           
 南主城域南端の番所跡。
御茶屋跡。 
 御茶屋跡内部の低い土塁に囲繞されたスペース。
馬洗池。 
 御馬屋跡。
桜馬場東側上段。 
 同西側下段。
桜馬場下段先端からの眺望。 
左手の山が虎御前山。 
 黒金門跡。
大広間のようす。 
 本丸石垣。
大広間井戸跡。 
付属して排水溝が検出されています。 
 本丸のようす。
 奥は土塁。
本丸西側の石垣で固められた竪土塁。 
 本丸背後の大堀切。
中丸下の石垣。 
 中丸の虎口。
中丸と奥に続く曲輪群を望む。 
 京極丸下の刀洗池。
京極丸の高土塁。 
 京極丸下の桝形虎口跡。
 秀吉軍はここを破って攻め上ったと伝えられています。
小丸のようす。奥と手前で2段になっています。 
 小丸奥の大石垣。
山王丸の石垣。 
 山王丸の虎口跡。
山王丸下段のようす。 
 山王丸上段のようす。
六坊跡。 
 六坊裏手の竪堀。
月所丸の連続畝堀群。 
 月所丸上段のようす。
月所丸下段のようす。 
 月所丸先の尾根筋の2条堀切。
金吾丸のようす。 
 金吾丸下段のようす。
金吾丸再下段を望む。 
 金吾丸再下段東脇虎口跡を望む。


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