平良ヶ崎城(へらがさき)
 別称  : 平良ヶ崎館、箆ヶ崎館
 分類  : 平山城
 築城者: 南部光行か
 遺構  : 堀跡
 交通  : いわて銀河鉄道三戸駅からバスに乗り、
      「高屋敷入口」下車徒歩3分


       <沿革>
           甲斐国南部牧を領して南部氏を称していた甲斐源氏・加賀美遠光の三男・光行は、文治五年
          (1189)の奥州合戦の戦功により、陸奥国糠部五郡を与えられたと伝わる。建久二年(1191)、
          光行は相内館に拠ったものの、手狭だったため翌三年(1192)に平良ヶ崎城を築いたとされる。
          ただし、南部氏が奥州に所領を得るのは鎌倉時代の末ごろとする説や、奥州南部氏の宗家は
          三戸家ではなく八戸家であるとする説も呈されており、戦国時代の南部晴政に至る系譜や事跡
          には不明な点が多い。
           経緯は不明だが、三戸南部氏はいずれかの時期に聖寿寺館へ移った。その後の平良ヶ崎城
          は三戸五城の1つに数えられ、支城として存続したとみられる。


       <手記>
           平良ヶ崎城は馬淵川に向かって南向きに突き出た、それこそヘラ(箆)の先のような舌状小峰
          に築かれています。かつては南部中学校があったということで、地表面に遺構は見られません。
          丘に上がると説明板が建っています。背後の切通しの道路は堀切跡といわれており、西方には
          緩やかな河岸段丘が広がり、その西端に聖寿寺館跡があります。
           『日本城郭大系』では聖寿寺館を居館、平良ヶ崎城を政庁と推測していますが、個人的にこの
          見方には疑問です。平良ヶ崎城は上述の通り舌状の峰上に位置し、聖寿寺館に対して要害性の
          高い立地にあります。また、聖寿寺館を含む台地上には一族重臣の屋敷などが並んでいたもの
          と考えられ、南部氏の広義の拠点区域を想定した場合、平良ヶ崎城はその東端に当たります。
          したがって、居館も政庁も聖寿寺館にあり、平良ヶ崎城はつとめて防衛上の支城であったとみる
          のが、自然ではないでしょうか。

           
 平良ヶ崎城跡説明板。
平良ヶ崎城跡現況。 
 城跡(南部中学校跡)入り口。


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