聖寿寺館(しょうじゅじ)
 別称  : 本三戸城
 分類  : 平城
 築城者: 南部氏
 遺構  : 曲輪、堀
 交通  : いわて銀河鉄道三戸駅からバスに乗り、
      「正寿寺」下車徒歩1分


       <沿革>
           戦国大名・南部晴政が三戸城を築いて移るまでの、三戸南部氏累代の居城とされる。南部氏
          は甲斐源氏・加賀美遠光の三男・光行が、甲斐国南部牧に入植したのがはじまりで、文治五年
          (1189)の奥州合戦の戦功により、陸奥国糠部を与えられたと伝わる。光行ははじめ相内館に
          拠ったが、手狭だったため建久三年(1192)に平良ヶ崎城を築いたとされる。ただし、南部氏が
          奥州に所領を得るのは鎌倉時代末期とする説や、奥州南部氏の宗家は三戸家ではなく八戸家
          であるとする説も呈されており、晴政に至る系譜や事跡には不明な点が多い。聖寿寺館の築城
          時期についても、やはり定かでない。
           天文八年(1539)六月、南部家臣・赤沼備中の放火により聖寿寺館は炎上・全焼したとされる。
          『祐清私記』によれば、晴政が備中の妻子を館に引き込んだことが原因ともいわれるが、詳細は
          不明である。備中は南部氏家老・奥瀬安芸を斬って逃亡したが、諏訪の平で下斗米将家に追い
          つかれ、誅殺された。
           これを機に晴政は聖寿寺館を廃し、前述の通り三戸城を新たな居城とした。晴政は南部氏の
          最盛期を築いた人物であり、集権化を図る上で聖寿寺館では手狭となったものと推測される。


       <手記>
           聖寿寺館は、馬淵川の流路が北西から北東へと変わる屈曲部の外側河岸の一画にあります。
          館自体もかなり広いですが、周辺は緩やかで広大な台地となっており、一族重臣の屋敷なども
          建ち並んでいたのでしょう。『日本城郭大系』では平良ヶ崎城が政庁で聖寿寺館が居館であった
          と推察していますが、平良ヶ崎城はどちらかといえば要害地形にあるので、個人的にはそうした
          区別はなく、聖寿寺館が中心であったと考えます。
           私が訪れた3月上旬にはまだ新しい降雪があり、現況は休耕地らしい館跡は一面の銀世界と
          なっていました。眺めている分には美しいのですが、城内には一歩も入れず、また入ったところで
          なにも分からないでしょうから、手前の空堀を愛でるにとどまりました。

           
 聖寿寺館跡および標柱。
空堀。 
 同上。
北東隅のようす。 


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