堂洞城(どうぼら)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 三木則綱か
 遺構  : 曲輪、堀、土橋か
 交通  : JR高山本線高山駅からバスに乗り、
      「石浦公民館前」下車徒歩10分


       <沿革>
           三木則綱が築いたと伝わり、三木氏が高山盆地に進出して初めて構えた城砦ともいわれる。
          『飛州志』所収の三木氏系図によると、則綱は三木直頼の祖父で、則綱の子は綱良とされる。
          ただし、史料上に見える直頼の父は重頼とされ、則綱に相当する人物は久頼である。
           久頼は、応仁の乱に伴い京極家中も分裂した京極騒乱において、飛騨国内の戦いで文明
          三年(1471)に討ち死にした。当時の三木氏の勢力はまだ益田郡内に留まっていたとみられ、
          主家・京極氏の命を受けて大野郡へ攻め入り、その際に堂洞城が築かれたとも考えられるが、
          確証はない。


       <手記>
           堂洞城は詳しい場所はおろか実在したのかも定かではない城砦です。石浦にあったとされ、
          現在の石浦町に堂洞住宅という賃貸住戸が見つかったので、その裏山が怪しかろうと当たり
          をつけて登ってみました。
           峰の先端は墓地になっていて(上図の上側の緑丸)、墓石群を抜けた小ピークに、土塁状
          地形が2か所と腰曲輪状の削平地が1か所見受けられました。とはいえ、墓地の造作である
          可能性は高いと思われ、背後鞍部は切通しになっているものの、城館跡であるという確信は
          得られません。
           そこから尾根筋に直登を試みると、かつては人が通っていたようで、踏み分け道やテープが
          ちらほら見られました。さらに登ると、土橋とも土塁ともつかないS字状の地形が延びていて、
          少なくとも「道」があったことは間違いないと思われます。ただ、土橋が歩きやすいわけでも、
          何かを避けているわけでもなく、また防御設備にも見えず、用途は謎です。
           そんなこんなで辿り着いた上図の下の緑丸のピークには、確実に人工とみられる小規模な
          平場と、その後ろ側に塚状地形が認められました。ピークの前方には1か所、後方には2か所
          堀切に見えなくもない地形があるのですが、断言はできません。平場についても、神社などが
          あったのかもしれませんし、塚状地形については古墳の可能性もあるでしょう。
           というわけで人工地形はあるものの、城跡かどうかは多分に留保が必要な感じです。一応、
          当時の街道は石浦付近から谷筋ないし尾根筋に入り、南西へ山を越えて一宮の臥龍桜付近
          に下りていたものと推測されます。そうなると、三木氏が高山盆地へ進軍するにあたり、中継
          や退路確保のために城砦を設けたとしても、不自然ではないように思われます。

           
 推定地尾根先端部を望む。
推定地頂部ピークを見上げる。 
 推定地先端部墓地の入り口。
推定地先端部の墓地。 
 同上。
墓地背後ピークの土塁状地形。 
 同上。
同じく削平地。 
 墓地ピーク背後の切通し。
同上。 
 その先の尾根筋にある土橋状地形。
同上。 
 同上。
頂部ピーク前方側の堀切状地形。 
 頂部ピークを見上げる。
頂部ピークの削平地。 
 削平地後部の塚状地形。
削平地前方のようす。 
 塚状地形後方のようす。
頂部ピーク背後の堀切状地形その1。 
 その2。
同上。 


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