比江山城(ひえやま)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 長宗我部氏か
 遺構  : 曲輪跡、土塁
 交通  : 高知自動車道南国ICより車で10分


       <沿革>
           元亀年間(1570〜73)ごろ、長宗我部氏によって築かれたといわれるが、詳細については
          不明である。比江の南西には土佐国府跡や国分寺跡があり、また比江にも、比江廃寺跡や
          伝紀貫之邸跡などがあり、古くから栄えた地域であったと考えられている。
           城将をつとめた比江山掃部助親興は、長宗我部国康の次男で長宗我部元親の従兄弟に
          あたる。親興は一門として重きをなし、天正十年(1582)に元親が阿波を制すると岩倉城主
          に任じられた。天正十三年(1585)に元親が羽柴秀吉に降伏するまでの間は、比江山城は
          桑名弥次兵衛が預かっていたとされる。
           天正十六年(1588)に、元親の嫡男信親が戸次川の戦いで討ち死にすると、後継者問題
          が生じた。重臣久武親直が元親の四男盛親を推すと、親興と元親の甥である吉良親実が
          長幼の順に則るよう訴えて激しく反対した。
           結局、元親の裁定によって盛親が家督を継ぐこととなった。親興と親実は、親直の讒言も
          あり、元親によって切腹を命ぜられた。両名の妻子もまもなく殺害されたが、彼らの怨霊が、
          高知に伝わる七人ミサキとなったといわれる。
           比江山氏の断絶により、比江山城も廃城となった。


       <手記>
           比江山城は、国分川と領石川の合流点にある緩やかな独立丘上に築かれています。城
          へは南東にある永源寺右手の獣道か、寺の裏へ登った最高所を右に折れて進むとたどり
          着くことができます。
           比江山はとても緩やかな山で、頂上の平坦部も広く、ほとんど要害性は認められません。
          城というよりは、山上に設けられた土居(館)と呼んだ方が正しいのではないかと思います。
           現在、本丸(本台)に比江山神社が祀られています。本丸の周囲には土塁が巡っており、
          この本丸部分が唯一当時のようすを語ってくれています。

           
 本丸下から比江山神社と土塁を望む。
本丸の案内板と土塁。 


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