日置浜城(ひおきはま)
 別称  : 向山城
 分類  : 平山城
 築城者: 杉左馬亮か
 遺構  : 曲輪、切岸
 交通  : 京都丹後鉄道岩滝口駅からバスに乗り、
      「日置」下車徒歩10分


       <沿革>
           『丹後国御檀家帳』に「むこ山」の城主として「御内衆の家三十軒斗 一宮殿おとな
          杉左馬亮殿」とあり、一色氏の重臣とみられている。『丹州三家物語』などでは、天正
          八年(1580)に細川氏が丹後へ入部して以降に、日置弾正が居城したと伝えている。
          ただし、『百鳥家文書』では日置氏を鎌倉御家人としており、その出自や動静は定か
          でない。
           同名の人物に、弓術の日置流開祖である日置弾正政次がいるが、こちらの読みは
          「ひおき」ではなく「へき」である。


       <手記>
           宮津湾に臨む小高い独立丘が日置浜城跡です。かつては向山と言ったようですが、
          今は妙見堂があることから妙見山と呼ばれています。西麓から参道を登ると、境内の
          阿弥陀一尊像板碑の説明板に、城についての記述もありました。
           頂上の境内を主郭として、参道沿いに2段の削平地が認められます。とくに主郭下の
          切岸は高く急峻で見応えがあります。境内裏手にも曲輪がありそうな感じでしたが、
          酷い竹藪だったので確認はしませんでした。
           一色家臣・杉左馬亮が在城していたことは疑いないと思われますが、日置氏および
          日置弾正については論点となるでしょう。妙見山の北2kmの山上には日置上城があり、
          天正年間に日置小次郎が居城したとされています。鎌倉時代に遡るかはさて置いて、
          地名を名字としている以上、日置氏は細川氏の入国以前から、この地に土着していた
          ものと思われます。日置浜城の築城主を杉左馬亮とするなら、日置一族は攻め入って
          来た細川藤孝に臣従し、杉氏に代わって日置浜城を与えられたと考えるのが最も自然
          ではないでしょうか。

 妙見山全景。
頂部の妙見堂。主郭跡か。 
 境内の阿弥陀一尊像板碑の説明板。
 城についても触れられています。
参道のようす。 
 参道脇の腰曲輪。
 同上。 
 主郭下の切岸。
参道口からの眺望。 


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