平井城(ひらい)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 上杉憲実
 遺構  : なし
 交通  : JR八高線群馬藤岡駅よりバス
       「矢島商店」バス停下車徒歩5分


       <沿革>
           永享十年(1438)八月、鎌倉公方足利持氏としばしば政策をめぐって対立していた関東管領
          山内上杉憲実は、ついに鎌倉を逃れて平井城に入った。一般に、平井城はこのときに上野国
          守護代総社長尾忠房によって築かれたとされる。持氏は憲実討伐の兵を挙げたが、逆に幕府
          から追討の軍を差し向けられることになった。持氏は敗れて、鎌倉の永安寺で自害した(永享
          の乱)。
           持氏の遺児成氏は、父を死へ追いやった上杉氏を深く恨み、享徳の乱を惹き起こした。寛正
          七年(1466)に山内上杉氏と関東管領を継いだ越後守護上杉房定の子顕定は、翌応仁元年
          (1467)に平井城を大改修した。現地説明板によれば、平井城はこのときに初めて築かれたと
          する説もあるという。また、この改修と同時に、詰城である平井金山城も整備されたとみられて
          いる。
           天文二十一年(1552)、北条氏康の勢力拡大に対し、平井城の維持は困難と判断した山内
          上杉憲政は、城を棄てて越後の長尾景虎を頼った。このとき、一説に憲政の一子龍若丸が、
          家臣の寝返りによって平井城内で捕えられ、まもなく北条氏によって処刑されたとされる(諸説
          あり)。平井城には、はじめ氏康の叔父長綱(幻庵)が、その後氏康の弟氏尭が入った。
           永禄三年(1560)、憲政の求めに応じた景虎が関東に出兵すると、平井城は他の上野国の
          諸城と同じく、長尾勢に攻め落とされた。景虎によって、平井城は廃されたとされるが、正確な
          廃城の経緯は定かでない。いずれにせよ、これ以降平井城は史料から姿を消している。なお、
          平井金山城については、その後も存続したものとみられている。

       <手記>
           平井城は、鏑川の支流鮎川の河岸に築かれた城です。平井周辺は、今では失礼ながら幹線
          からは離れているような印象ですが、かつては平井から高山城の東麓を南西に進み、浄法寺・
          鬼石方面へと向かう鎌倉街道が走っていたそうで、武蔵方面へ展開するには都合の良い場所
          であったと推測されます。また、平井の南西に位置する日野は、鉄工業が盛んであったことで
          知られ、この点も上杉氏が平井に居城を置いた大きな理由とされています。
           現在、本丸と二の丸の間の堀跡をなぞるように県道173号線が縦走し、本丸跡が城址公園と
          して整備されています。とはいえ、遺構はまったく残っていないそうで、公園と道路の境に土塁
          が復元されているのみです。公園には駐車場も説明板も新しくばっちり設置されているだけに、
          何だか残念で寂しい気持ちにさせられます。
           公園前から1ブロック北の生活道路を東に入り、本丸の北東側に回ると、もう1か所城跡として
          整備されているところがあります。ここには、発掘調査を経たものかは定かではありませんが、
          復興本丸堀と思しきものが建設されています。また、位置的に竪堀と思しき、石垣で囲まれた
          函型の凹部がありますが、これが城跡にちなむものかも不明です。
           関東管領上杉氏の居城ということで、歴史的にかなり意義のある城ですが、いかんせん遺構
          が壊滅しているということで、近年きれいに公園化されたとはいえ残念感はぬぐえません。平井
          城を訪れる際には、詰城である金山城にも忘れず登られることを強くお勧めします。

           
 平井城址碑と復興土塁。
本丸北東側。復興本丸堀か。 
 復興本丸堀向かいにある函型凹部。復興竪堀跡か。


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