金山城(かなやま)
 別称  : 平井金山城
 分類  : 山城
 築城者: 上杉氏
 遺構  : 曲輪跡、石塁、土塁、堀、虎口、井戸跡
 交通  : JR八高線群馬藤岡駅よりバス
       「農協」バス停下車徒歩15分


       <沿革>
           山内上杉氏の居城平井城の詰城である。平井城は、上杉憲実によって寛正七年(1466)に
          築かれたとされるが、金山城は応仁元年(1467)に上杉顕定が平井城を改修した際に新たに
          設けられたものと考えられている。ただし、正確な築城年は不明である。
           天文二十一年(1552)、北条氏康の勢力拡大に対し、平井城の維持は困難と判断した山内
          上杉憲政は、城を棄てて越後の長尾景虎を頼った。金山城も北条氏の手に帰したはずだが、
          攻城戦が行われたかは不明である。平井城には、はじめ氏康の叔父長綱(幻庵)が、その後
          氏康の弟氏尭が入った。
           永禄三年(1560)、憲政の求めに応じた景虎が関東に出兵すると、平井城は他の上野国の
          諸城と同じく、長尾勢に攻め落とされた。平井城は、景虎によって廃されたとみられているが、
          金山城はその後も存続したものと考えられている。
           廃城時期は不明だが、遅ければ天正十八年(1590)の小田原の役まで使用されていたもの
          と推測される。

       <手記>
           金山城は、前述のとおり平井城の詰城ですが、資料にはほとんど顔を出しません。群馬県
          には、同名ながら100名城にも選定されたほど有名な(新田ないし太田)金山城があるため、
          これと区別するために平井金山城と呼称されることが多いです。
           山の南東麓、県道沿いに城址入口の大きな看板があり、無料駐車場も完備されています。
          地権者や地元保存会の厚意によって史跡整備されているようで、ありがたい限りです。登山
          道を上っていくと、最初に物見台と呼ばれる東端の曲輪に到達します。ここから尾根筋に西に
          登ると、堀切を越えて3連の虎口があります。この虎口群はいずれも喰い違いになっており、
          また一部には石積みが見られます。永禄三年時点のものとは思えない技巧的な縄張りです。
           虎口群と抜けると、2つほどの緩やかな曲輪を経て本丸に至ります。本丸の西には腰曲輪が
          1つありますが、その先は自然地形になっています。南辺にも取り立てて防御設備はみられず、
          西と南からは攻められることをあまり想定していないように見受けられます。
           個人的に一番印象的だったのは、本丸の北辺一段下の虎口です。北に続く尾根から攻めた
          場合、堀切を渡ってこの虎口に入り、抜けたところで斜面に突き当り、左右どちらかに迂回しな
          ければなりません。虎口は埋門状になっており、通過しようとすると左右の櫓台状態の武者溜
          から攻撃を受けます。また、抜けることができても、突き当りの斜面上にも帯曲輪があり、今度
          は先の両サイドの武者溜と合わせて三方からの攻撃に晒されることになります。きわめて巧妙
          かつ実践的な縄張りであるといえます。
           その北に続く尾根には数段の曲輪が連続し、それぞれの曲輪間はやはり喰い違いの出入口
          になっています。北西にちょっと折れて堀切を渡った先にある井戸曲輪が、本城域の北西端に
          なります。この曲輪の一段下には、曲輪名の由来となっている井戸施設跡があります。井戸と
          いっても、大きく方形に掘られた溜池状の施設で、飲用ではなく、雨水をためて用水としたもの
          とみられています。この方形井戸施設の2辺は、岩盤を大胆に直角に削ってつくられています。
           井戸曲輪に折れる手前に、分かり難いですが櫓門跡へ下りる分岐の看板があります。これを
          下ると、2段ほどの腰曲輪と藪を経て櫓門跡に至ります。この門跡には石塁が残っており、貴重
          な遺構であるといえます。ここが大手とされており、緊急時には平井城から現在の県道ルートを
          とるのではなく、平井から真西に谷筋へ入り、尾根伝いにこの大手に至ったものと考えられます。
           大手口や本丸北の虎口、本丸東尾根の連続虎口群などのシステマティックな遺構を見るに、
          金山城が山内上杉氏の詰城のまま廃城となったとは、私には思えません。さらに、縄張り全体
          をみると、先述の通り西と南から攻められることは想定していないように感じられます。すなわち、
          この城にいて北から攻められる可能性があったのは北条氏しかありえず、金山城の最終的な
          改修者は北条氏であるとみて間違いなかろうかと思います。さらに、その場合の想定される敵
          は上杉謙信ないし豊臣秀吉であり、個人的な直感としては、秀吉による小田原の役まで金山城
          は現役だったのではないかと考えています。

           
 金山城址遠望。
本丸東下の城址碑。 
 本丸のようす。
本丸東の腰曲輪下から本丸方面を望む。 
 本丸東下の竪堀。
本丸東の腰曲輪。 
 東尾根筋の虎口群その1。
虎口群その2脇の腰曲輪。 
 虎口群その3。右手に石積みが見えます。
虎口群下の堀切。 
 東端の物見台。
本丸北辺下の虎口。 
 同虎口を北尾根側から。
 両サイドと奥の石柱裏の曲輪から攻撃を受ける構造です。
同虎口外の堀切。 
 北尾根筋の曲輪の喰い違い虎口。
井戸曲輪の堀切。 
 井戸曲輪下の井戸遺構。
 奥から右手へ岩盤が直角に削られています。
櫓門跡。 
 同上。


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