平井山ノ上付城(ひらいやま) | |
別称 : 平井山陣城、平井山本陣 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 羽柴秀吉 | |
遺構 : 曲輪、土塁、堀 | |
交通 : 神戸電鉄粟生線恵比須徒歩30分 | |
<沿革> 天正六年(1578)に始まる三木合戦における、織田家臣羽柴秀吉の本陣となった陣城である。 三木城を包囲すべく、織田信忠の援軍を得てひと通りの支城を攻め落とした後の同年八月ごろに 築かれたとみられている。 同年十月十五日には、津田宗及を招いて茶会が催されたが、同月二十二日には籠城方の別所 長治の叔父吉親と弟治定が陣城を襲った。この戦いで別所勢は敗退し、治定が戦死した。 翌天正七年(1579)六月十三日には、秀吉の軍師いわれて名高い竹中半兵衛重治が、36歳で 陣没している。翌八年(1580)一月に三木城が開城すると、役目を終えて廃城となったとみられる。 <手記> 三木城の北東2kmほどのところにある平井山陣城は、「平井山ノ上付城」の名で国史跡に指定 されています。陣城なので山自体に要害性は乏しく、緩やかにいくつも派生する尾根筋にを中心 に、兵の駐屯スペースたる削平地が数多く造成されています。観光ブドウ園へ向かう北麓の道路 沿いに駐車場が整備され、登山口には立派な縄張り図付きのパンフまで用意されていました。 登りはじめてまもなく、細長い平場が階段状にびっしり続いている斜面に出ますが、ここについて は兵が長の滞在をするにはあまりに窮屈で、遺構かは留保が必要ではないかと思います。かつて は平井山もぶどう園の一部だったということなのであるいは…という感じです。 それ以外はほぼほぼ付城の遺構とみられ、陣城らしい特徴が散見されます。たとえば、主尾根 が太閤道と呼ばれる1本の削平された空間となっていて、往来を遮断するような曲輪形成がなされ ていなかったり、主郭が三木城を向いてコの字型の土塁に囲まれただけの空間となっていたりと いった具合です。なかには堀を兼ねた通路や虎口状の地形などもみられますが、基本的には兵を 留め、敵城を監視するという目的に即した造りとなっています。 ものすごい発見はないものの、包囲戦における付城の考え方の1つとして、たいへん参考になる 城跡といえるでしょう。なお、西麓には竹中半兵衛の墓があります。 |
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南西から平井山を望む。 | |
登山口。 | |
登りはじめてすぐの愛宕社。 | |
愛宕社上の削平地。 | |
細い平場が段々に連なる斜面。 遺構かは留保が必要と思われます。 |
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太閤道と呼ばれる主尾根。 | |
主尾根途中の土壇地形。 | |
支尾根の腰曲輪。 | |
主郭を見上げる。 | |
主郭と土塁。 | |
主郭から三木城を望む。 | |
主郭付け根の虎口状開口部。 | |
主郭東側の曲輪の櫓台状土盛り。 | |
櫓台状土盛りのある曲輪。 おそらく城内最大の面積をもちます。 |
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同曲輪の土塁で囲まれた東端部。 | |
谷戸を埋めた曲輪。 | |
堀を兼ねたとみられる通路。 | |
同上。 | |
東端のピーク斜面の削平地群。 | |
東端のピークの腰曲輪。 | |
東端のピーク頂部。 城内最高所です。 |
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大手口(推定)。 | |
大手口脇のピークの腰曲輪。 | |
大手口脇のピーク頂部。 | |
竹中半兵衛の墓。 |