三木城(みき)
 別称  : 別所城、釜山城
 分類  : 平山城
 築城者: 別所則治
 遺構  : 土塁、堀跡、井戸跡
 交通  : 神戸電鉄粟生線三木上の丸駅徒歩5分


       <沿革>
           赤松家臣別所則治によって築かれたとされる。別所氏は赤松氏の庶流とされるが、その系譜は
          諸説あり定かでない。文明十五年(1483)、赤松政則は山名領の但馬へ攻め入って大敗し、堺へ
          逃亡した。翌十六年(1484)に、則治は政則と共に上洛して将軍足利義尚に拝謁し、同年十二月
          に播磨へ帰還を果たした。則治の名はこのときに忽然と史上に現れたとしばしば評される。
           政則は則治の功績に報い、長享二年(1488)ごろまでに東播磨8郡の守護代に任じたとされる。
          三木城が築かれたのはこれ以降のことと考えられているが、詳しい築城の経緯は明らかでない。
          そもそも、別所とは今日の三木市街南方一帯を指す地名であり、もともとの本貫地にあった居館を
          近くに移しただけとする見方もある。則治はその後も地盤確立と勢力拡大に務め、政則の急死後
          は、以前から赤松家中を差配してきた浦上氏や小寺氏と比肩する最有力重臣の1人となった。
           則治の子ないし孫の就治の代には、赤松氏はすっかり統制力を失い、別所氏や浦上氏、小寺氏
          がそれぞれ半ば自立して戦国大名化した。享禄三年(1530)、就治は管領細川高国を擁した浦上
          村宗と対立し、村宗方の依藤城を攻めるため高国と争っていた細川晴元の重臣柳本賢治に援軍
          を依頼した。しかし、賢治は城攻めの陣中で村宗の刺客により暗殺され、かえって村宗・高国勢に
          三木城を攻め落とされた。
           翌享禄四年(1531)、赤松政祐(晴政)の裏切りによる大物崩れで村宗・高国が共に横死すると、
          就治は三木城を回復した。天文七〜八年(1538〜39)には尼子氏が播磨へ侵攻して三木城を攻め
          たが、撃退に成功している。同二十三年(1554)に今度は三好長慶の軍勢が三木城の支城7つを
          攻め落とし、三木城の陥落は免れたものの、三好氏に従属する形で和議を結んだ。
           就治の子安治は上洛した織田信長に臣従し、元亀元年(1570)には三木城へ攻め寄せた浦上
          宗景を退けている。また、同年に嫡子則房に家督を譲った赤松義祐が居城置塩城を逐われると、
          三木城に義祐を一時匿った。
           安治の子長治は、天正五年(1577)に織田家臣羽柴秀吉が播磨へ進駐した際には協力していた
          が、翌六年(1578)二月に毛利氏へ寝返って三木城に籠城した。『別所長治記』では、毛利攻めの
          軍議の場で、長治の代理として参陣した叔父の別所吉親が種々の献策をするもことごとく秀吉に
          退けられたため、憤激して織田家と手を切るよう長治に迫ったとされる。ただし、当時の播磨はまだ
          不安定で毛利方の国人も多く、また備前の宇喜多氏も毛利に属していたため、それ以前から工作
          が進んでいたものと考えられている。
           秀吉は翌三月には三木城攻めの軍勢を整え、支城を順次落として包囲網を狭める戦略を採った。
          九月ごろまでには、城の包囲がおおよそ完了したとみられ、秀吉は三木城北東の平井山に陣城
          築いた。この間、毛利勢は織田方の上月城を攻め落としたが、本格的な救援は行わなかった。
           7500人が立て籠もる三木城は、補給が途絶えれば早晩飢えに苦しむのは自明であった。十月に
          入り、吉親と長治の弟治定が秀吉陣を襲ったが、敗れて治定が戦死した。だが、同月に突如として
          有岡城主荒木村重が謀叛を起こし、摂津からの補給が可能となった。これにより城方は一旦息を
          吹き返したが、翌七年(1579)五月に淡河城が陥落すると、再び補給路が建たれることとなった。
           同年九月十日、別所方と毛利方の双方が兵を出しての補給作戦が決行された。毛利勢は三木城
          北西の平田に陣取っていた谷衛好を討ち取ったが、その隣の大村で別所勢が敗れたため、作戦は
          失敗に終わっている。
           同年十月には宇喜多直家が織田に寝返り、翌十一月には有岡城が陥落。救援の見込みはほぼ
          なくなったが、長治は秀吉の降伏勧告を拒絶して籠城を続けた。しかし、まもなく城内の兵糧は底を
          尽き、「三木の干殺し」と呼ばれる凄惨な状態に陥った。翌八年(1580)一月六日には宮ノ上要害
          が、十一日には長治の弟友之が守る鷹尾山城が攻め落とされ、長治は十四日ついに降伏勧告を
          受け入れた。十七日、長治と友之は城兵の命と引き換えに自害し、1年10か月にも及ぶ籠城戦は
          幕を下ろした。なお、吉親は切腹を是とせず城内に火を放とうとし、家臣に殺害されたとされる。
           戦後、秀吉家臣の杉原家次や前野長康が三木城代となった。天正十三年(1585)には中川秀政
          が入れられ、秀政の跡を継いだ弟の秀成が文禄三年(1594)に豊後岡城主へ転じると、三木城は
          豊臣家の直轄となり城番制となった。中川家時代に、城に天守が上げられたともいわれる。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで池田輝政が姫路藩52万石に封じられると、家老伊木忠次が
          3万石で三木城主となった。忠次の跡は子の忠繁が継いだが、元和元年(1615)の一国一城令に
          よって廃城となった。


       <手記>
           三木城は美嚢川沿いの台地の角に位置していますが、正直にいってそれほど要害の地とはいえ
          ません。それでも播磨三大城の1つに数えられているのは、規模の大きさに加え別所氏の実力が
          高かったからではないかと推測しています。秀吉が三木城を力攻めしなかったのも、士気の高い
          別所勢相手では、石山本願寺攻めのように補給さえ維持できればいくらでも粘られてしまうという
          経験に基づいているような気がしました。
           今日では三木市街の一部となっていて、合戦の知名度や大きさに比べて遺構はほとんど残って
          いません。公園となっている本丸でお話しした地元の方は、神戸の工場で働いている時分に手頃
          な価格で家を買ったと仰っていて、今では歴史の街よりベッドタウンとして定着しているようです。
           本丸には天守台とされる櫓台状土塁があり、その上には長治の辞世「今はただ うらみもあらじ
          諸人の いのちにかはる 我身とおもへば」の碑が建っています。また、先端近くに「かんかん井戸」
          があり、現地説明板には鐙が出土したとありますが、『日本城郭大系』には昭和の初めに掘ったと
          書かれていて、どちらが正しいのか不明です。
           本丸の南辺には稲荷神社があり、社殿が土塁跡の上に建っているようにも見えます。また、南辺
          と東辺の堀跡は、今も切通し道となって辿ることができます。
           二の丸跡には資料館や美術館があり、1980年に行われた発掘調査で堀や井戸の跡が検出され
          ているそうです。二の丸の南辺もまた、堀跡が切通し道となっています。二の丸の東方には新城と
          呼ばれる外郭部が延びていましたが、今では住宅地となって城跡らしさはありません。二の丸南方
          の雲龍寺には、長治夫妻の首塚があります。
           ちなみに、三木城跡の丘上には駐車場がありません。私は三木陣屋跡の三木市中央公民館の
          駐車場を拝借しました。

 美嚢川対岸から三木城跡を望む。
本丸公園のようす。 
 伝天守台と別所長治像。
伝天守台と説明板。 
 本丸からの眺望。
かんかん井戸。 
 稲荷神社。本丸南辺土塁跡か。
本丸東辺堀跡の切通し道。 
 本丸南辺堀跡の切通し道。
二の丸跡。 
 二の丸跡の説明板。
二の丸南西辺堀跡の切通し道。 
 雲龍寺の別所長治夫妻首塚。 


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