昼寝城(ひるね) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 寒川光治 | |
遺構 : 曲輪跡、土塁、堀 | |
交通 : 琴電長尾線長尾駅からバスに乗り、 「山王」下車徒歩50分 |
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<沿革> 嘉吉年間(1441〜44)に、寒川光治によって築かれたと伝わる。寒川氏は讃岐国造の 後裔凡直千継の子孫で、寒川郡の郡司を代々務めたとされる。 文明年間(1469〜86)に入り、寒川元家は隣領の三谷景久と激しく争い、景久の急襲 を受けた。このとき、元家の居城に火が放たれたともいわれ、昼寝城を指すとも考えられ るが、詳細は定かでない。元家は逆に三谷氏を攻めたが、完勝には至らず押し返されて いる。 天文元年(1532)、元家の子元政は、三好方の十河氏や安富氏と合戦に及んだ。奇襲 によって十河氏を退けた元政は、細川晴元の命により十河一存と和睦に至った。しかし、 もう一方の安富盛方は収まりがつかず、同九年(1540)に当時の寒川氏の居城であった 池内城を攻め落とした。元政は昼寝城に退き、盛方はなおも兵糧攻めにしたが、抜くこと はできず撤退した。 元政の子元隣は、居城を虎丸城へ移し、昼寝城には弟の光永を入れた。しかし、元亀 二〜三年(1571〜72)に篠原長房とその娘婿の安富盛定が共謀し、お互いの領地を隣接 させるため大内郡を割譲するよう三好長治を通じて迫った。これを容れざるを得なかった 元隣は、郡内4郷と虎丸城を明け渡して再び昼寝城へ戻った。 天正三年(1575)、経緯は不明だが、昼寝城は阿波の海部左近友光に攻め落とされた とされる。このころ、元隣は三好一族の十河存保のもとにあり、光永も兄を頼って落ち 延びたといわれる。 早ければこのときに、昼寝城は廃城になったとも考えられる。一方で、天正十年(1582) に長宗我部元親が讃岐へ侵攻した際に、岩田雲長らが昼寝城を攻撃したともいわれる。 ちなみに元隣は、同年の中富川の戦いで存保に従って戦死し、光永も出家して寒川氏は 没落した。 <手記> 昼寝城は、矢筈山の支峰上にある城で、讃岐と阿波を結ぶルート上にあるとはいえ、 かなり奥まったところに位置しています。道の駅ながおを過ぎてしばらく行くと「昼寝城址」 と標識の建つ分岐があり、ここから里道に入って真っすぐ行けば、いずれ登城口に辿り 着きます。標識や説明板、駐車スペースもしっかりしているので、迷うことはないでしょう。 登山道も整備されているのですが、讃岐特有の土質なのか、ところどころサラサラの土 が崩れて滑落しそうなポイントがあるので足元には要注意です。途中1か所鞍部があり、 峰先側にはなんらかの施設があったようにも見えます。 基本的には東西に細長い山頂部のみの城で、手杵のように両端がそれぞれ小ピークと なっています。西が先端側で、寒川社という小祠がありますが、土塁などの造作はみられ ません。東側は南辺から東辺にかけて土塁が残り、標高も西の曲輪より若干高いため、 こちらが主郭と考えられています。両郭の間の鞍部は馬場と呼ばれ、登山道もここに出る のですが、とても馬を走らせるような長さはありません。曲輪を結ぶ回廊程度の意味だと 思われます。 主郭から南東尾根を下ると、堀切が1条残っています。その先にも堀とまでいってよいか 微妙な鞍部があり、ここには石組みを具えた井戸状の穴がみられます。その先は矢筈山 方面に向かっての急な登りとなるので、大きくてもここまでが城域とみるべきでしょう。 全体として、はっきり言って小城です。嘉吉年間ならいざしらず、戦国の末期までこの城 が重視されていたとは、ちょっと思えません。山容が険しく昼寝をしていても守れるという のが、この印象的な城名の由来ともいわれていますが、私は眉唾です。山頂は狭く、風は 強く、ここで昼寝とはしゃれこめないでしょう。おそらく、由来は不明ながら昼寝山という山 の名前が先にあったのでしょう。それにしても、歴代の城主は改名を考えなかったんです かね(笑) 現地説明板によれば、付近には古代の信仰集団や鉱物資源を求める工人集団の存在 を示す遺構があるとされています。かつては多和神社周辺あたりまで諸施設が建ち並び、 山城だけでなくこの奥深い集落全体を以て要塞と成していたのかもしれません。 |
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大多和集落から昼寝城山を望む。 | |
登城口。 | |
登り途中に1か所ある鞍部。 | |
鞍部の先端側。 何らかの施設があったようにも見えますが…。 |
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山頂の鞍部(馬場)から西の曲輪を望む。 | |
西の曲輪と寒川社。 | |
同主郭とみられる東の曲輪。 | |
東の曲輪の土塁。 | |
南東尾根筋の堀切。 | |
堀切の先の鞍部にある井戸跡様石組み。 |