虎丸城(とらまる)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 寒川氏か
 遺構  : 曲輪、堀、土塁
 交通  : JR高徳線三本松駅徒歩100分


       <沿革>
           昼寝城主寒川元隣は、16世紀後半ごろに居城を虎丸城に移しているが、このときに築かれた
          のか、それ以前から城砦が存在したのかは明らかでない。元亀二年ないし三年(1571〜72)、
          三好家重臣篠原長房とその娘婿の安富盛定が共謀し、互いの領地を接するため大内郡4郷を
          割譲するよう、三好長治を通じて脅迫した。これを容れざるを得なかった元隣は、虎丸城を盛定
          に明け渡し、昼寝城へ戻った。
           江戸時代の軍記物語『南海通記』によると、天正十年(1582)の中富川の戦いに敗れた十河
          存保は、虎丸城に退いて長宗我部元親に抵抗を続けた。元親は次いで虎丸城にも攻め寄せた
          が、このときは落とすことはできなかった。作戦を転換して、雨滝城引田城十河城と周囲の
          拠点城から攻略していくと、存保は虎丸城を維持できなくなり、同十二年(1584)に城を棄てて
          豊臣秀吉を頼り落ち延びた。一方、虎丸城は陥落することなく、同十三年(1585)の秀吉による
          四国平定まで持ち堪えたとする説もある。
           遅くとも、このときに廃城になったものと推測されるが、中富川の戦い以降の虎丸城の動向に
          ついては不明な点が多い。


       <手記>
           虎丸城のある虎丸山は、東かがわ市のほぼ中央に横たわる、標高417mの独立山塊です。
          城砦化されているのはその頂部付近で、とくに北東側から見ると、乳首のように険しく突出して
          いるのが分かります。登山道はいくつかあるようですが、北麓の水主(風呂)から登るのが最も
          簡明でおすすめです。弘海寺跡が駐車場として整備されているので、車があれば比較的訪れ
          やすい城といえるでしょう。
           比高は370mとかなり高いものの、1本道で迷うことはないので、足を進めていればいずれは
          辿り着けます。主城域の手前には三角点のある支峰があり、出丸とみられています。その前後
          の鞍部は堀切跡とされ、三角点付近は削平されているものの、遺構としてははっきりしません。
           さらに頂上を目指して最後の急斜面に取りつくと、左右に竪堀があるとされています。とくに、
          正面左手の北東斜面は畝状竪堀となっているとされ、たしかに巨大な溝状地形が見られます。
          しかしながら、私はこれを竪堀とみるのは懐疑的です。本来、竪堀は斜面の緩い箇所の防御を
          補う目的で設けられるものですが、この北東斜面は主郭の周囲でも最も急勾配で、手を使わず
          にはとても登れません。すなわち、虎丸城の城域では竪堀を最も必要としない場所といえます。
          ここに竪堀があるのであれば、他の斜面にも当然設けられていなければなりませんが、そうは
          なっていません。
           また、当該の溝状地形が斜面の中でも谷筋に沿っているのも気になります。私の見たところ、
          讃岐特有の砂地質の急斜面が崩れ、そこに水が流れてさらに抉られを繰り返して形成された
          自然地形と考えるべきかと思います。
           山頂の主郭は方形に近く、その東側は櫓台状の土塁となっています。その上には祠があり、
          眺望も開けているため、一般の登山客も訪れているようです。また休憩小屋も建てられていて、
          そこには『大内町史補遺』所収の縄張り図も掲示されています。ただ、前述のとおり私から見る
          と、その縄張り図はかなり豪華に盛られているように感じます。
           山頂からは、登ってきた北側尾根のほかに、ほぼ十字に計4本の尾根が延びています。その
          うち最も見ごたえがあるのは西側の尾根で、少なくとも3本の堀切が認められます。おそらく、
          寒川氏時代の大手はこちらにあったのでしょう。また、南側尾根にも堀切が1つ見られますが、
          こちらの造作はやや不明瞭です。東側尾根は傾斜が急で、堀はなく曲輪形成も曖昧です。
           さて、虎丸城については中富川の戦い以後の動静が大きな論点となっています。『南海通記』
          の通説に対しては、以下の2つの説が唱えられています。ですが、私はそのどちらにも否定的
          な立場です。
           @豊臣秀吉の四国平定まで、十河存保は虎丸城で持ち堪え落城しなかった
           A虎丸城を落とした長宗我部元親は、秀吉軍の襲来に備えて改修を行った
          ちなみに@が正しければ虎丸城は一度も長宗我部氏の手に渡っていないことになり、Aとの
          両立はありえません。
           @は津野倫明氏が唱えている説ですが、根拠が不明です。他方で引田・雨滝・十河の3城が
          落ちたことは確実であり、四方をがっちり固められて、虎丸山だけでどれほど抵抗が続けられる
          ものか、大いに疑問です。津野氏は長宗我部氏の事跡をとにかく矮小化しようとするという強い
          指向性をもった研究者で、@についても、その指針上の目的ありきの論述展開となっている点
          に留意する必要があるでしょう。津野氏は『長宗我部氏の研究』において、氏に対する批判への
          反批判を以て自説が正しいと論じていますが、批判意見の言葉尻を逐一あげつらい、津野氏の
          意見が正しいとうすうす感づいているから断じきれていないのだという、およそ実証的とはかけ
          離れた内容となっています。要約すると、落城したという記録がないから落城していないのだと
          いうもので、それを言うならそもそも存保が虎丸城にいたという一次史料もないわけで、津野氏
          の説は多分に願望のこもった論であると言わざるを得ません。
           続いてAですが、こちらは前出の畝状竪堀が長宗我部氏の築城術の特徴であるという点を
          論拠としています。ただ、こちらも既述のとおり、件の溝状地形が竪堀なのかどうかをまず疑う
          必要があるでしょう。虎丸城自体は、主郭以外の曲輪形成は判然とせず、規模の大きい城とは
          いえません。また、長宗我部氏はあまり高所の城を取り立てない傾向があり、十河氏を逐った
          後も、この城を使用したかどうかは大いに疑問です。
           個人的な結論としては、昼寝城と同様に山岳信仰の対象であった虎丸山を、寒川氏が取り
          立て、中富川の戦いの後に十河存保が拠ったものの、支え切れずに逃亡してそのまま廃城と
          なったものと考えています。

           
 北東から虎丸山を望む。
北麓の水主から望む。 
 北側支峰前方の鞍部。
 堀切跡か。
支峰頂部の三角点。 
 支峰背後の鞍部。
 同じく堀切跡か。
畝状竪堀とされる北東斜面の溝状地形。 
私は自然地形と見ています。 
 同上。
同じく北西斜面の溝状地形。 
 主郭北尾根の腰曲輪。
腰曲輪から主郭を見上げる。 
 主郭のようす。
主郭東側土塁上の祠。 
 主郭からの眺望。
主郭西尾根の堀切。 
 同じく2条目。
同じく3条目。 
 主郭南尾根の堀切。


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