久川城(ひさかわ) | |
別称 : 伊南城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 河原田盛次 | |
遺構 : 曲輪、石塁、土塁、堀、虎口 | |
交通 : 会津鉄道会津田島駅からバスに乗り、 「古町温泉入口」下車徒歩15分 |
|
<沿革> 天正十七年(1589)六月、会津の大名・蘆名氏が伊達政宗に滅ぼされると、伊南郷の駒寄城主 河原田盛次にも降伏が勧告されたが、盛次はこれを拒絶した。同時に、駒寄城での抗戦は困難 と見た盛次は、新たに久川城を築いて戦いに備えた。 同年八月から、政宗は降伏した隣領の鴨山城主長沼盛秀を道案内に立てて出兵したが、盛次 は伊北郷の山内氏勝と連携して徹底抗戦の構えを見せた。盛次は久川城に、氏勝は水久保城 に立て籠もって背水の籠城戦を展開し、上杉景勝や蘆名義広の実家である佐竹家、さらにその 背後に控える豊臣秀吉に助力を請いつつ、翌十八年(1590)の小田原の役まで、なんとか落城を 免れている。 秀吉からは、所領を安堵するので自身の奥州下向まで持ち堪えるようにとの書状を受け取って いたが、役後の奥州仕置において約束は反故にされ、河原田氏は所領を没収された。代わって 会津領主となった蒲生氏郷は、重臣・蒲生郷可を1万石で久川城主に任じ、城を大幅に改修した。 慶長三年(1598)に上杉景勝が新たな会津領主となると、久川城には長尾数馬、藤田吉左衛門 が入れられた(両者の代わりに蘆名旧臣の清野長範を城主とする説もある)。 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いにより氏郷の子・秀行が旧領に復すると、蒲生彦太夫が城代 となったが、同十六年(1611)から一国一城令が発布された同二十年(1615)までに廃城となった とみられている。 <手記> 久川城は、伊南川と滝倉川、そして久川に三方を囲まれたミカヅキモ状の細長い峰に築かれて います。搦手にあたる北東麓に「奥会津博物館 伊南館」と駐車場が整備され、伊南館は金土日 および祝日のみ開館しているようです。 城内は見学しやすくきれいに整備され、ぐるっと見学して大手から下りられるようになっています。 一番の特徴は本丸以下三の丸および南曲輪まで主要な曲輪が横並びになっていて、最高所は それら曲輪群背後の一直線の高土塁となっている点です。近世城郭というより大寺院跡のような 様相ですが、稜線を曲輪に用いないのは鴫山城にも見られる構造でもあります。かなりの高さを 掘り込んだり盛ったりして造成しており、とても一国人である河原田氏が短期間で普請できるもの ではありません。こうした構造は南会津固有の築城術であり、河原田氏時代と変わらぬ縄張りを 蒲生氏や上杉氏が深化させたのか、それとも両氏が縄張りごと大改修したのかは議論の余地が あるように思います。 |
|
伊南川対岸から久川城跡を望む。 | |
駐車場から看板と城山を見上げる。 | |
搦手虎口跡。 | |
城内から見た搦手虎口。 | |
虎口脇の土塁。 | |
北出丸跡。 | |
北出丸へ続く途上の土塁。 | |
北曲輪のようす。 | |
本丸北辺の空堀と土塁。 | |
同じく東辺。 | |
同じく南辺。 | |
本丸前の城址碑。 | |
本丸跡。 | |
同上。 | |
本丸付近からの眺望。 | |
二の丸跡。 | |
二の丸付近の石塁。 | |
二の丸南側の空堀兼竪堀。 | |
三の丸を南から俯瞰。 | |
三の丸南側の竪堀。 | |
南曲輪跡。 | |
主郭部背後の土塁上のようす。 | |
土塁中途の堀切。 | |
同上。 | |
土塁から竪堀を見下ろす。 | |
主城域南端の虎口。 | |
南麓の大手角馬出し。 |