保渡田城(ほどた)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 内藤昌豊
 遺構  : 曲輪跡、土塁、櫓台、堀
 交通  : JR両毛線前橋駅よりバス
       「土屋文明記念文学館」バス停下車徒歩5分


       <沿革>
           永禄九年(1566)に箕輪城の長野氏が武田信玄によって滅ぼされた後、西上州の支配を任された
          内藤昌豊(昌秀)によって築かれた。ただし、昌豊は同時に箕輪城代も拝命しているため、箕輪城を
          廃して保渡田に移ったという訳ではないようである。あるいは、保渡田は平時の政務用、箕輪は軍事
          用と分けていたのであろうか。
           昌豊は天正三年(1575)の長篠の戦いで討ち死にし、跡を子の大和守昌月(養子とも)が継いだ。
          昌月は家督継承時に一旦箕輪城代から外れていたようで、天正七年(1579)に改めて勝頼から箕輪
          城代に任じられている。同時に保渡田城主にも返り咲いたものと思われるが、この間の城将は不明
          である。
           昌月は、武田氏が滅亡した後は織田氏に、本能寺の変の後は北条氏に従った。『日本城郭大系』
          によれば、『総社記』に天正十七年(1589)のこととして、保渡田城主内藤外記が中川武蔵守に攻め
          られ善竜寺で自害したとされている。昌月はこの前年に死去しているため、内藤外記は昌月の子か
          それに準ずる者と考えられる。
           これ以降の保渡田城については不明である。おそらく小田原の役の終結とともに廃城されたものと
          思われる。また、前出の中川武蔵守としてこの地に関係する同名の人物に、前田家臣であった中川
          光重が当てはまるとも考えられる。この場合、年代に1年のずれがあるものの、小田原の役の際に
          碓氷峠を越えて侵入した前田軍によって保渡田城は攻め落とされたと考えることも出来る。


       <手記>
           保渡田城は、土屋文明記念文学館の西、保渡田北部公会堂のあたりを中心とする城です。公会堂
          一帯を本丸として、渦巻き状に曲輪を配した、いかにも武田氏らしい縄張りをしています。
           遺構としては、公会堂の南側にある古墳を転用した櫓台(上図の小丸)や、本丸の北の曲輪にある
          土塁と堀(上図の鉤字実線部分)が一番の見所でしょう。櫓台の上からは、今も旧箕郷町一帯が広く
          望めます。土塁と空堀も良好な形で残されていて見ごたえがありますが、民家の敷地内にあるため、
          好き勝手に歩き回るというわけにはいきません。また、城の東方の防備を担っていたと思われる小川
          にも、切岸にされたような感じが見受けられます。
           武田氏支配時代には、箕輪城と並ぶ拠点であったと思われる保渡田城ですが、現在では箕輪とは
          対照的にひっそりと眠っているような感じを受けました。



           
 古墳を利用した櫓台跡。
本丸北側の曲輪の土塁と堀跡。 
 城の東を流れる小川。
 掘り下げられ、切岸とされたような感じを受けます。


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