箕輪城(みのわ)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 長野業尚
 遺構  : 曲輪跡、石垣、土塁、空堀、土橋、虎口、井戸など
 交通  : JR高崎駅よりバス。「城山入口」下車徒歩5分


       <沿革>
           永正年間(1504〜20)ごろ、長野業尚(尚業)によって築かれたと考えられている。それまでの
          長野氏の居城は浜川館であった。業尚の子信業による築城ともいわれる。信業は山内上杉憲房
          に仕えて憲業と改名したと伝わるが、信業と憲業は別人とする異説もある。憲業以前の長野氏の
          系譜については不明な点が多い。憲業は享禄三年(1530)に吾妻で戦死し、子(甥とも)の業正
          (業政)が跡を継いだ。
           天文二十一年(1552)、山内上杉憲政が越後の長尾景虎を頼って落ち延びると、業政は西上野
          一帯の諸豪族(箕輪衆)の盟主的存在となった。憲政の落去を好機とみた武田信玄は、同年から
          上州への調略を進めた。弘治三年(1557)には本格的な侵攻が始まり、業正は瓶尻(みかじり)で
          信玄勢と合戦に及んだ。この戦いには敗れたものの、業正はゲリラ戦を展開し、信玄勢の撃退に
          成功した。その後も信玄の上野侵攻は繰り返されたが、その度に業正は撃退し、「業正ある限り、
          上野を攻め取ることはできない」と信玄を嘆かせたといわれる。
           永禄四年(1561)に業正が死去し(同三年とも)、跡を若干14歳(17歳とも)の業盛(氏業)が継ぐ
          と、信玄はただちに上野侵攻を再開した。業盛も、父に劣らず武勇に優れた若武者であったといわ
          れるが、経験では信玄に及ぶべくもなく、また名将業正を失った箕輪衆内部の精神的ショックなど
          もあり、一度は撃退したものの、調略や周辺諸城の攻略により、箕輪城は徐々に孤立していった。
           永禄九年(1566)、信玄はついに2万の大軍を擁して上野攻略に乗り出した。数度の激戦ののち、
          同族長野業通の守る鷹留城が落とされ、業盛勢は箕輪城南方の若田原で武田勢主力と激戦を
          繰り広げた。戦いは決着をみなかったが、兵の疲弊をみた業盛は、領内の全兵力をもって箕輪城
          に籠城した。信玄勢は生原砦に陣を布いてたちまち城を包囲し、激戦の末同年九月二十九日に
          城は落ちた。業盛以下一族郎党はみな、御前曲輪で自刃して果てた。
           戦後、信玄は重臣内藤昌豊を箕輪城主に任じ、上野を支配させた。昌豊は同年に保渡田城
          築いているが、箕輪城を廃したわけではなく、両城による領国経営を行っていたものとみられる。
          また異説として、当初の箕輪城代は甘利昌忠と真田幸隆で、その後浅利信種が引き継ぎ、永禄
          十二年(1569)の三増峠の戦いで信種が戦死したため、翌元亀元年(1570)に昌豊が箕輪城代と
          なったともいわれる。
           昌豊は天正三年(1575)の長篠の戦いで討ち死にし、跡を養子の昌月が継いだ。しかし、箕輪
          城代の役職は一度召し上げられ、同七年(1579)に再び拝命している。この間の城代は土屋昌次
          とみられ、同六年(1578)に土屋氏によって城が改修されたことが記録にみられる。同十年(1582)
          三月、武田氏は天目山に滅んだが、これに先立つ同年二月二十八日、北条氏邦が箕輪城へ進駐
          した。武田氏滅亡により、織田家重臣滝川一益が関東への侵攻を開始し、箕輪城の氏邦勢を駆逐
          した。一益は一旦箕輪城に入ったが、すぐに厩橋城へ移っている。同年六月二日に本能寺の変が
          起こると、同月十九日の神流川の戦いに敗れた一益は、上野を捨てて帰還した。
           箕輪城には再び氏邦勢が入り、昌月も北条氏に従った。北条氏時代の天正十五年(1587)まで、
          城は断続的に改修を受けた。とりわけ同十五年には、豊臣氏との緊張が高まるなかで大規模な
          普請が行われた。だが、同十八年(1590)の小田原の役では、碓氷峠を越えて進軍してきた前田
          利家・上杉景勝軍を前に戦火を交えることなく開城した。
           北条氏滅亡後、徳川家康が関東に入封すると、井伊直政が12万石で箕輪城に入った。直政の
          手により箕輪城は近世城郭に改められた。しかし、慶長三年(1598)には高崎城を普請して移り、
          箕輪城は廃城となった。


       <手記>
           箕輪城は、白川と井野川に挟まれた河岸段丘の丘陵上に築かれた城です。日本百名城に数え
          られていますが、100名城の中には実際の戦闘を経験していないものも少なくありません。そんな
          なかで、この箕輪城は激戦を経験し、長野氏一族の悲哀を内包する城です。
           遺構は良好に残っていますが、今日の城跡は井伊氏時代のもので、長野氏時代の城のようすに
          ついては詳らかではありません。ただ、本丸と御前曲輪は長野氏の頃からあったとされ、永禄九年
          に落城したとき、業盛以下一族郎党は御前曲輪の持仏堂に籠もって自害したとされています。御前
          曲輪内の井戸からは大量の墓石が見つかっていますが、これは武田軍による辱めを恐れた長野氏
          の家臣が、累代の墓石を隠したものと言い伝えられています。
           本丸と御前曲輪の周囲には深い堀がめぐり、その外側を輪郭式状に曲輪が取り巻いています。
          部分的に石垣も残っています。本丸の南に二の丸があり、その南には大堀切が東西方向に穿たれ
          ています。この大堀切は、発掘の結果もともとの深さ比べて6mほど埋まっているということですが、
          それでも写真にはうまく収まらないほど大きなものでした。
           この堀切は南面と土橋でのみつながっており、多くの書籍や現地案内では、この大堀切を挟んで
          南北で別城一郭をなしていると説明されています。しかし、別城一郭というよりは、この堀切は本城
          域と外郭部を分けているといった方が正しいようにみえます。
           箕輪城は百名城のなかでも雄といえる存在ですが、その割には行政による整備はお粗末といわ
          ざるを得ません。ボランティアの方々が城内の整美を行っているということですが、それにも限界が
          あります。以前夏場に訪れたときには、本丸が胸元ぐらいの高さの藪に覆われていて歩くのも困難
          でした。一応、新高崎市の発足にともない、10年かけて城内を整備・復元する計画だということです
          が、どの程度本気なのか、今後の動向を見守りたいところです。


           
 本丸の城址碑。
本丸のようす。 
 本丸と御前曲輪の間の空堀。
御前曲輪のようす。 
 御前曲輪北堀。
稲荷曲輪上段の稲荷神社。 
 御前曲輪西石垣。
 蔵屋敷跡のようす。 
御前曲輪や稲荷曲輪、三の丸とつながっていて、 
遊撃用の曲輪として用いられたと考えられています。 
 二の丸南の大堀切と土橋。
 その向こうが郭馬出。


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