堀江城(ほりえ) | |
別称 : 堀江陣屋、佐田城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 大沢基秀 | |
遺構 : なし | |
交通 : 浜松駅からバスに乗り、 「浜名湖パルパル」下車 |
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<沿革> 国人・大沢氏の居城である。大沢氏は藤原北家持明院流で、丹波国多紀郡大沢を領して いたことにちなむとされる。堀江城は、遠江国敷智郡に所領を与えられた大沢基秀が、貞治 年間(1362〜68)に遠江国敷智郡に築城したと伝わる。 永禄十二年(1569)、遠江へ侵攻した徳川家康は、周辺諸城を攻め落とした上で堀江城を 攻め立てた。当時の城主・大沢基胤は、一族とされる中安兵部定安らと共に頑強に抵抗し、 徳川氏に転向した井伊谷三人衆の1人・鈴木重時を討ち取るなど大きな損害を与えた。遠江 平定を急ぐ家康は力攻めを諦め、領地安堵を条件に和議を持ちかけ、基胤もこれを承諾した。 このとき基胤は、主君・今川氏真に降伏の許可を求め、氏真は了承した上でこれまでの奉公 を労っている。 元亀三年(1573)十二月、今度は三方ヶ原の戦いに勝利した武田信玄が翌日に堀江城を 攻撃したが、このときも基胤勢は城に籠って奮戦し、陥落を免れている。天候の悪化もあり、 4日の攻城の後に武田勢は包囲を解き、堀江北東の刑部で年を越してから三河へ向かった。 天正十八年(1590)に徳川家が関東へ移封となると、基胤の子・基宿もこれに従ったとみら れる。慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いを経て、基宿は1550石で旧領に復したが、この間の 堀江城の扱いは定かでない。以後、大沢家は江戸幕府の高家旗本として存続し、堀江城の 一画に堀江陣屋が営まれた。最終的には3550石まで加増されている。 明治元年(1868)、大沢基寿は新政府に対して計1万6石として高直しを申請し、新政府は 額面通り大沢家を大名に列した。しかし、実高は5500石程度に過ぎず、再調査によって虚偽 が発覚し、基寿は華族から士族へ落とされた上、禁錮1年を申し渡された。これにより、堀江 陣屋も廃止となったものとみられる。 <手記> 堀江城は浜名湖に突き出た岬状の小山を利用した城で、北西にはもともと島だったという 古刹・舘山寺があります。城は東西2つの峰にそれぞれ主郭以下が設けられ、一城別郭と なっていたようです。全体の中心は東側の丘で、現在は全体が遊園地「浜名湖パルパル」 となっています。入園料は1300円ということで逡巡したのですが、遺構は残っていないわけ で、代わりに往復1100円のかんざんじロープウェイに乗って俯瞰することにしました。だって、 男の子ですから笑 西側の丘は、舘山寺温泉の大きな旅館の敷地だったようですが、閉業して建物も解体され てしまい、敷地内は立入禁止となっています。脇から丘を見上げてみたものの、藪に埋もれ ており、登ったところで何も分からなさそうです。その南方の舘山寺温泉バス停に、説明板が 設置されていて、無料で見られる唯一の城跡のよすがと思われます。 それにしても、徳川家康と武田信玄というビッグネーム2人に直接攻められても落城せず、 かなりの出血を強いた堅城の跡に、ちびっ子連れのファミリーやカップルの笑顔や楽しい声が 溢れているというのは、なんとも皮肉なように感じますね。 |
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堀江城跡周辺現況。 | |
かんざんじロープウェイから堀江城跡を俯瞰。 | |
さらに上から俯瞰。 | |
舘山寺温泉バス停の説明板。 | |
西側の丘を見上げる。 | |
おまけ:かんざんじロープウェイ。 |