大久保城(おおくぼ) | |
別称 : 大窪城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 大窪氏か | |
遺構 : なし | |
交通 : 東武東上線上福岡駅よりバス 「東大久保」バス停下車 |
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<沿革> 『新編武蔵国風土記稿』の大窪(大久保の旧表記)村の項に、「古城蹟 村の北河越往還の 東側にあり 城蹟とのみ伝えり 何人の居城なりしや」とある。『小田原衆所領役帳』によれば、 「大窪丹後 同内匠助 同勘解由」が入東大窪郷に55貫文を領していたとされる。大窪氏に ついて詳細は不明である。 比定地付近には「金子街道」の小字が残る。「金子」は、大久保の南隣の難波田郷の領主 難波田氏の祖先の苗字であるが、大窪氏や大窪郷と難波田氏の間に関係があるかは不明 である。「街道」の方についても、「城跡ほっつき歩き」では、城館跡を示す「垣内(かいと)」の 転訛とする郷土史家の説を掲載している。 <手記> 大久保城(大窪城の方が表記的に正しいと思いますが、一般的な呼び方に合わせて以下 同とします)は、県道56号線と旧新河岸川の間付近にあったとされています。東大久保交差 点のすぐ南に長谷寺があり、ここを中心にしばし歩き回ってみたのですが、城館跡らしきもの はとくにみつかりませんでした。 河川改修や土地改良がかなりなされている土地柄のようで、旧地形をうかがうのはかなり 困難なようですが、びん沼と新河岸川に挟まれた純粋な低湿地だったのではないかと思われ ます。長谷寺の寺伝によれば、江戸時代以降川越の伊佐沼から用水を引いていたものの、 水害と旱魃の両方に苦しめられていたそうです。新河岸川が水運に利用されるようになった のは江戸時代に入ってからのことで、それ以前は内川と呼ばれていました。 これら状況証拠を総合すると、大久保は開発には向かない土地であり、大窪氏がそれほど 大身の領主であったとは思えません。自然、大久保城とはいっても、土豪の館程度のもので あったと推測されます。 住まわれている方の名誉のために補足しますと、現在では土地改良によって豊かな田園 地帯となっています。私が訪れたときはちょうど収穫前で、実のたわわなる黄金色の絨毯が 広がっていました。 |
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長谷寺。 |
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旧新河岸川周辺現況。 ビオトープという名のほったらかし状態になっています。 |