藤島城(ふじしま)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 斯波高経か
 遺構  : 土塁
 交通  : えちぜん鉄道東藤島駅下車徒歩3分


       <沿革>
           延元三/建武五年(1338)、敗れた北朝方の斯波高経は南朝方の新田義貞に対抗する
          ため、越前国内に藤島城を含む足羽七城を築いた(『太平記』)。同年閏七月二日、義貞は
          高経の本拠である黒丸城(小黒丸城)を攻めたが、南朝方であった平泉寺衆徒が北朝方
          へ寝返り、藤島城に拠って新田勢に激しく抵抗していたため救援に向かった。しかし、夕刻
          の燈明寺畷で斯波氏麾下の細川出羽守らの軍勢と遭遇し、乱戦の中で義貞は討ち死に
          した(藤島の戦い)。
           藤島城がその後も存続したかどうかは詳らかでない。遅くとも明徳三年(1392)までには
          廃されており、その跡地に浄土真宗超勝寺が建立された。本願寺8世蓮如は、吉崎御坊
          を拠点としていた文明三〜七年(1471〜75)の間に、超勝寺にしばしば逗留したとされる。
           永正三年(1506)、加賀一向一揆勢は九頭竜川の戦いで朝倉宗滴に敗れ、越前国から
          撤退した。このとき、一向宗の越前での拠点である超勝寺も、永禄十年(1567)に朝倉氏
          との和議が成立するまで、本願寺の手を離れた。


       <手記>
           福井県の遺跡地図によると、上の地図に示した範囲が藤島城跡とされています。超勝寺
          は西と東の2つが指呼の間に別々に存在していますが、城跡に建っているのは西超勝寺
          です。地図で見ると、どちらかというと東側にあるのが西超勝寺で、位置的には逆になって
          いるのですが、これは地理上の理由ではなく本願寺の東西分裂に従ったものだそうです。
          訪問時にはお気をつけください。
           西超勝寺の門前には石碑と説明板が建てられています。立派な本堂の裏手の墓地には
          土塁と碑があり、城内で唯一はっきりとわかる遺構となっています。ただ、遺跡地図の範囲
          はさらに北の白山神社裏手に及んでおり、これが正しければ、藤島城は2つ以上の曲輪を
          具えていたことになります。
           とはいえ、南北朝時代の城郭遺構がそんなにはっきり残っているのかいささか疑問です。
          どちらかというと、土塁などは戦国時代に超勝寺が城砦化された名残とみた方がよいように
          思います。また、すぐ南西には林城があったとされていますが、こちらと藤島城ないし超勝寺
          が併存していたのかどうかも、個人的に気になるポイントです。

           
 (西)超勝寺門前の石碑と説明板。
本堂。 
 土塁遺構。
(西)超勝寺背後のようす。 
遺跡地図に従えば、左手の住宅地との 
境目までが城域だそうです。 
 おまけ:(東)超勝寺。
 こちらは城域外なのでご注意を。


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