古国府城(ふるこくふ)
 別称  : 如意城
 分類  : 平城
 築城者: 神保氏か
 遺構  : 土塁、堀、虎口、土橋
 交通  : JR氷見線伏木駅徒歩5分


       <沿革>
           守山城の出城として越中国府跡に築かれたとされるが、築城主や時期などは不明である。
          天正十二年(1584)、織田信長亡き後の越中国主であった佐々成政の意向を受け、守山城主
          神保氏張は古国府城を含む「府之分一円」を浄土真宗の勝興寺に寄進した。この背景には、
          隣国前田氏やその背後の豊臣(羽柴)秀吉との対立が深まるなかで、越中に強い勢力をもつ
          一向門徒を味方に付ける目的があったとみられている。
           翌天正十三年(1585)の富山の役で成政は秀吉に降伏し、神通川以西は前田領となった。
          勝興寺は引き続き前田家の庇護を受け、境内伽藍が整備されていった。今日に見られる城郭
          遺構は勝興寺によって構築されたともいわれるが、確証はない。


       <手記>
           勝興寺は本堂と大広間の2棟が国宝に指定されるなど、今なお県内でも有数の規模を持つ
          大寺院です。そのほかにも壮麗な唐門や総門、浄土真宗にはよくみられる城郭櫓風の鼓楼と
          いった建物が目につきます。
           城郭遺構としては、鼓楼前の水濠を含め、四周の堀と土塁の大部分が現存しています。西辺
          には虎口のような開口部を形成する土塁や横矢折れが認められ、また南辺には土橋状地形も
          見られました。
           一向宗というと、城砦化されている寺も少なくないというイメージですが、勝興寺に関しては、
          さすがに豊臣政権下でこれだけの堀や土塁を新たに巡らすのは無用な介入を招くだけのように
          思います。複数の横矢折れをもつ方形の館城ということで、守山城主神保氏張の平時の居館と
          見たほうが、無理がないのではないでしょうか。
           ちなみに、個人的に現地を訪れて思ったのが、周囲より意外と高所にあるという点です。地図
          では伏木市街は一面平坦にも見えますが、勝興寺は西のみ地続きの緩やかな舌状地形上に
          立地していました。この場所に国府や城館が置かれたというのも納得です。

           
 勝興寺鼓楼と水濠。
東辺の土塁。 
 勝興寺唐門。
勝興寺本堂(国宝)。 
 境内の「水の涸れない池」。
西辺の虎口状地形と土塁。 
 虎口状地形外側の横矢折れ。
境内側から見た南辺土塁。 
 南辺土塁の空堀と土塁。
南辺の土橋。 


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