守山城(もりやま) | |
別称 : 越中守山城、二上城、海老坂城、獅子頭城、森山城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 桃井氏か | |
遺構 : 曲輪、石垣、堀跡 | |
交通 : 高岡駅からバスに乗り、「新守山」下車徒歩40分 | |
<沿革> 観応三/正平七年(1352)の「得田素章代斎藤章房軍忠状」『得田文書』に、足利尊氏派 の能登守護・吉見氏頼が直義派の桃井直常の弟・直信を「獅子頭」に攻めたことが記されて いる。獅子頭は守山の古名とされ、このとき既に城砦が設けられていたとすれば、守山城に 関する史料上の初出とみられている。 その後、時期や経緯は定かでないが、幕府方の越中守護・斯波義将が「森山城」を拠点と した。現地説明板によれば、応安四/建徳二年(1371)に直常が石動山天平寺衆徒と示し 合わせて守山を攻め、義将を追い落としたとされる。しかし、直常はこの前年に長沢の戦いで 子の直和が討ち死にする大敗を喫し、飛騨へ追いやられていたため、事実関係には疑問が 残る。 康暦二/天授六年(1380)に越中守護・畠山基国と義将が守護職を交換すると、神保国久 が射水・ 婦負2郡の分郡守護代として越中に入国した。国久は放生津城を居城に、守山城 を詰城としたとされる。 永正十六年(1519)、一向一揆と誼を通じて独立を図った神保慶宗に対して、越中守護の 畠山尚順は能登守護・畠山義総や越後守護代・長尾為景を誘って慶宗の籠もる守山城を 攻めた。このときは義総勢を急襲して撤退させ、囲みを解くことに成功したが、翌十七年(15 20)に再び長尾勢に攻められ、慶宗は新庄の戦いで敗死した。 神保氏は慶宗の弟とされ、守護側に与していた慶明が継いだとされるが、まもなく消息が 絶えたため詳細は不明である。天文十二年(1543)ごろ、慶宗の子とされる長職が新川郡に 富山城を築き、勢力を拡大していった。『彭叔和尚語録』によれば、同二十三年(1554)には 神保職広が守山に居城していたとされる。職広は長職の一族とみられるが、詳しい系譜は 不明である。また、この間の守山城主についても定かでない。 永禄十一年(1568)、為景の子・上杉謙信が越中平定の兵を挙げ、守山城へ攻め寄せた。 当時の城主は神保氏張とされる。氏張は神保氏重の子で、国久の弟・国氏にはじまる別流 とみられているが、畠山氏から神保氏純の養子に入ったともいわれ、やはり系譜は詳らかで ない。また、氏張の妻は織田信長の姉ないし妹とされるが、まだ上洛も果たしていない信長 の姉妹がなぜ遠く離れた越中の、それも守護代の庶流に嫁いでいるのか、その経緯は不明 である。このとき、越後で本庄繁長の乱が起きたため謙信は越中から撤収しており、落城を 免れている。 神保本家も氏張も天正四年(1576)までには上杉氏に降伏していたが、氏張と長職は対立 関係にあったとされ、氏張は越中国内で半ば独立した勢力となっていたとみられる。同六年 (1578)に謙信が急死して御館の乱が勃発すると、氏張は妻の縁もあってか逸早く織田氏へ 転じた。織田家臣佐々成政が越中の新たな支配者となると、氏張は佐々氏の女を子の妻に 迎え、その縁者となった。一方、長城の兄弟とされる長住(同一人物とも)も織田氏の従って 越中平定に功を挙げたが、旧臣の小島職鎮・唐人親広らに反乱を起こされて富山城に幽閉 され、織田勢に救出されたものの失脚した。これにより、守山城の氏張が越中神保氏を代表 する存在となったと推測される。 天正十三年(1585)の富山の役に際し、氏張は成政の命で前田利家に寝返った阿尾城主 菊池武勝を攻めた。しかしこの間に守山城で家臣による謀反が起きたため、踵を返して鎮圧 した。成政が豊臣秀吉に降伏すると、新川郡を除く越中西半を没収され、氏張も積年の居城 を後にした。成政旧領は利家の子・利長に与えられ、守山城はその居城となった。 慶長三年(1599)に利家が死去すると、利長が家督を継いで金沢城へと移った。代わって、 利長の義兄にあたる前田長種が守山城代となった。関ヶ原の戦い後の同十年(1605)に、 富山城が利長の隠居城として再興されると、守山から寺や町屋が移されたといわれるが、 正確な廃城年は定かでない。 <手記> 伏木の港に臨む二上山の、ひとつ西側の城山一帯が守山城跡です。標高は約259mあり ますが、麓から二上万葉ラインが通じていて、山頂に駐車場も整備されているため、車なら 訪城は容易です。「万葉」と付くのは、平安時代の国府が伏木に置かれ、大伴家持が国司 として赴任していたからで、鎌倉時代の守護所も伏木に近い放生津にありました。そのため 南北朝時代に守山城が重要視されたのは当然としても、戦国時代も終わりの前田利長が こんな高所に居城し続けたというのは不思議でなりません。あるいは、前田氏の領国である 加賀と能登の双方からのアクセスを考慮したのかもしれませんが、私には大きな謎です。 二上万葉ラインや公園化によって城内は破壊を受けていますが、主郭やその下の数段の 腰曲輪などは原型をとどめているように思います。とくに注目すべきは、南側から回り込んで 見学できる主郭西辺の石垣跡でしょう。数か所に石垣の名残がみられるほか、裏込め石と 見られる礫石が散乱していました。 尾根筋にはまだまだ曲輪が続いているようなのですが、道や公園整備から一歩外れると ド藪に埋もれており、とても歩き回れる様子ではありませんでした。一方、駐車場奥の鉄塔 背後には、道路建設で埋められているものの最後尾とみられる堀切跡があります。 |
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阿尾城跡から守山城跡を望む(鉄塔の右側)。 鉄塔左側、画面中央の山は摩頂山城跡。 |
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駐車場から主郭を望む。 | |
主郭の説明板。 | |
主郭のようす。 | |
主郭に聳える天守…ならぬ平和観音像ww | |
主郭からの小矢部川流域の眺望。 | |
主郭から摩頂山城跡を望む。 左手奥が阿尾城跡。 |
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主郭西辺の石垣跡。 | |
同上。 | |
同上。 | |
裏込め石か。 | |
主郭下の腰曲輪その1。 | |
その2。 | |
最後尾とみられる堀切跡。 | |
同上。 |