大野城(おおの)
 別称  : 御門城
 分類  : 平城
 築城者: 原光胤か
 遺構  : なし
 交通  : JR武蔵野線市川大野駅徒歩10分


       <沿革>
           『東葛飾郡誌』によれば、平将門が築いたとする伝承があるとされるが、信憑性が高いとは
          いえない。南西の曽谷城主曽谷教信の父親について、日蓮生母の兄弟にあたる大野政清
          ともいわれ(『玉沢手鏡』等)、日蓮に帰依した教信自身も大野で没したとする説があり、大野
          との関連が指摘されるが、城館についての伝承などはみられない。
           康正元年(1455)、千葉氏庶流の原胤房は馬加康胤と共に、千葉宗家当主の千葉胤直・
          胤宣父子を攻め滅ぼした。胤房の弟・光胤は大野に拠って大野原氏を興しており、大野城は
          このときに築かれたものと推測される。胤房らは翌二年(1456)一月に、胤直の甥にあたる
          千葉実胤・自胤兄弟の立て籠もる国府台城を攻め落としており、光胤の大野分家はこれに
          伴う胤直方の領地への進出であったと思われる。
           寛正七年(1466)、光胤は武蔵国吉川での戦いで討ち死にした(『本土寺過去帳』)。光胤
          以下、大野原氏は代々豊前守を称したとみられ、後裔と考えられる原豊前守胤安は一般に
          本佐倉原氏と呼ばれている。胤安の子・豊前守胤長は下総千葉氏当主・千葉邦胤の後見を
          務めており、このころまで大野を領し続けていたのかは定かでない。


       <手記>
           大野城は、複雑に入り組む丘陵地帯の一角の、小さな舌状地形にあったとされています。
          現在は市川市立第五中学校となり、遺構は残っていないようです。城地の先端に、平将門
          伝説にちなむ祠があるそうですが、学校の敷地を校舎裏まで抜けなければならないので、
          勝手には行けません。
           同じ大地の南西隅には大柏小校庭内遺跡があり、中世の城館跡とされています。台地の
          付け根側には御門の字が残り、大手門跡と伝えられるほか、光胤にちなむ光胤山本光寺が
          建っています。さらに、谷戸を挟んだ東側の台地には館跡とされる字殿台が、同じく西側の
          台地には米蔵跡とされる字迎米があり、これらを含む範囲に広義の大野城が営まれていた
          とすれば、最盛期の大野原氏によるものと考えるのが妥当でしょう。

           
 市川市立第五中学校前の説明板。
校門前付近からの眺望。 
 学校近くにある浄光寺。


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