池内城(いけのうち) | |
別称 : 台ガ城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 細川繁氏ないし寒川常隣 | |
遺構 : 曲輪、堀、土塁 | |
交通 : 琴電長尾線長尾駅からバスに乗り、 「亀鶴」下車徒歩10分 |
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<沿革> 細川繁氏ないし寒川常隣によって築かれたとされる。前者であれば、寒川氏が昼寝城を 築くよりも前、繁氏が讃岐守護を継いだ正平七/文和元年(1352)から同十四/延文四年 (1359年)に没するまでのことと考えられる。一方、常隣の寒川氏における系譜は詳らかで ないが、大永年間(1521〜28)に安富氏との戦いで活躍したことが知られている。 大永六年(1526)、十河景滋が寒川氏を攻撃せんと図ったが、寒川元政は先手を打って 二本杉を急襲し、十河勢を退けた。このときまでに、寒川氏は居城を昼寝城から池内城に 移していたものと推測される。 天文元年(1532)、景滋の養子一存が池内城を攻撃した。このとき、寒川氏家臣の鴨部 (神内)氏が一存の陣を襲い、一存の腕に槍傷を負わせた。しかし、一存は傷口に塩をすり 込んで消毒し、藤のかずらを巻いて平然と戦っていたことから、「鬼十河」の異名をとったと される。しかし、この年は一存の生年とされているため、少なくともこの合戦での出来事とは 考えにくい。 戦いは決着がつかず、細川晴元の命により十河氏と寒川氏は和議を結んだ。ところが、 同じく寒川氏と激しく争っていた安富盛方は収まりがつかず、天文九年(1540)に池内城を 攻め落とした。元政は昼寝城に退き、盛方はなおも兵糧攻めにしたが、落としきれず撤退 した。この後、3年にわたり昼寝城を巡る攻防が繰り広げられたとされるが、この間の池内 城の動向については詳らかでない。時期は不明だが、安富氏もまた細川氏に降っている ため、このときまでに池内城も寒川氏の手に戻ったものと推測される。 その後の池内城についても不明である。昼寝城は元政の次男光永が預かっていたが、 天正三年(1575)に海部左近に攻め落とされたとされる。 <手記> 鶴亀公園南西の丘が池内城跡で、北西麓の県指定天然記念物「長尾衝上断層」前に ある、広めの駐車場を利用できます。その東脇に、山上の荒神社および墓地の参道用と 思われる階段があり、登り切った先は主郭東下の鞍部となります。ここには堀切があった とみられるのですが、重機道や施設用に埋め均されていて旧状ははっきりしません。その 東側にも小ピークが延びているのですが、ひと通り歩いてみた限り、南東麓から堀底道が 付いているくらいで、城らしい造作はとくに見られませんでした。おそらく、この鞍部が城域 の東端なのでしょう。 主郭は峰上の形に沿って長い1枚曲輪で、お墓の建つ東端の櫓台状の土塁をはじめ、 ちらほらと土塁状地形がみられます。城内一番の見どころは、主郭西端の「城越し」と呼ば れる堀切で、名前からして廃城後は東西往来の峠道となっていたと思われます。ほかにも 北辺の尾根筋にも、堀切ないし腰曲輪とみられる遺構があります。また南側中腹には広め の削平地があり、耕地だったとは思いますが、館施設があったとも考えられます。 『日本城郭大系』によれば、城越しの南側のピークも城域とされています。頂部とその下 に2段程度の削平地がありますが、『大系』に「館があったと伝えられている」と記述されて いるほどの広さはありません。 さらにその南方、谷間の集落道を進んだ先にグラウンドの跡地があり(地図の下の緑丸 付近)、『大系』によれば「寒川屋敷」があった場所とされています。ただ、グラウンド工事に より地形が大きく改変されているということで、遺構を含め旧状は留めていないようです。 全体として、山間奥地にある昼寝城に対する、寒川氏の里城であったとする点で、衆論 一致しているようです。細川繁氏によって1350年代に築かれたとする可能性は、ゼロでは ないもののかなり低いように思います。昼寝城を築いてからそう間もない時期に、寒川氏 の平時の居城として設けられたとみるのが、妥当ではないでしょうか。 |
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主郭東端のお墓。櫓台土塁か。 | |
主郭のようす。 | |
同上。 | |
同上。奥に見えるのは土塁か。 | |
北側尾根筋の堀切ないし腰曲輪跡。 | |
北西端の荒神社。 | |
南西端の土塁。 | |
土塁背後の堀切「城越し」。 | |
主郭南側中腹の削平地。 | |
主郭東側鞍部の堀切状地形。 | |
主郭東側小ピークの堀底道。 | |
城越し南側小ピークの頂上。 | |
その下の帯曲輪状地形および切岸。 | |
「寒川屋敷」と呼ばれるグラウンド跡地。 |