今里城(いまざと)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 能勢頼弘か
 遺構  : 堀跡
 交通  : 阪急京都線長岡天神駅徒歩20分


       <沿革>
           能勢源左衛門尉頼弘によって寛正年間(1461〜66)に築かれたと伝わる。能勢氏は摂津国能勢郷を
          領した多田源氏の末裔で、頼弘は幕府の奉公衆として足利義政に仕えたとされる。応仁の乱に際して
          能勢氏は東軍に属し、応仁元年(1467)の洛中での戦いにおいて頼弘・頼満父子は戦死した。
           平成二年(1990)の発掘調査で発見された木簡の表裏には、「大永二」「ひこ五郎」の文字が書かれ
          ていた。大永二年(1522)に作成された『山城国小塩庄帳』にも「のせひこ五郎」の名が記載されており、
          当時の城主ないしその縁者と推測されている。
           今里能勢氏はその後も代々足利将軍家に近侍していた。天正元年(1573)に足利義昭が織田信長に
          対して挙兵した際、当時の城主能勢頼広は義昭に従った。義昭が追放されて足利幕府が滅亡すると、
          今里能勢氏も没落し、帰農したとされる。


       <手記>
           今里城は、西から東へと流れる風呂川の南岸に築かれた城です。かつては、この風呂川がそれなり
          に深い北辺の堀を成していたようですが、現在では上の地図では寸切れとなっている太い道路が完成
          し、埋まってしまいました。それでも、城側から道路へは落ち込む地形となっています。
           現在も、城域内に能勢氏の立派な居宅があります。山本正男「京都市内およびその近辺の中世城郭」
          (『京都大学人文科学研究所調査報告 第53号』)では、この能勢氏宅を今里城の北西隅としています。
          ですが、前述の発掘調査の結果、能勢氏宅の西側から、南北方向より西へ折れる堀跡や井戸、木橋
          が検出されています。この調査現場は現在マンションとなっており、表に説明板が設置されています。
          上の地図に示した緑丸が説明板の位置、四角で示しているのが山本氏の指摘する城域です。今里城
          が山本氏の想定より巨大なものであったのか、それとも位置を西へずらせばよいのかは今のところ不明
          です。ただ、少なくとも西端が検出された堀の位置まで延びることは間違いないようです。

           
 今里城跡説明板。
 中央のマンション下から堀跡などが検出されました。
城址北辺の旧風呂川から城址方面を望む。 


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