稲葉地城(いなばじ)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 津田豊後守
 遺構  : なし
 交通  : 市営地下鉄東山線中村公園駅から
      バスに乗り、「稲葉地」下車徒歩5分


       <沿革>
           織田信長の伯父にあたる津田豊後守によって築かれ、『尾張志』によれば東西40間
          (約73m)、南北56間(約102m)の規模であったとされる。城の南西に隣接する凌雲寺
          には豊後守の子玄蕃が建立した宝篋印塔があり、それによれば、豊後守は天文五年
          (1536)に死去している。
           一般に、豊後守は信長の父信秀の弟信光に比定されているが、信光は信長の叔父
          であり、「伯父」とする記述とはそぐわない。また、前出のとおり豊後の没年は天文五年
          だが、信光は弘治元年(1556)に殺害されている。
           この点、現地説明板では豊後守について「岩倉城主で織田敏定の庇護を受け、敏定
          の末息子敏元を養子嗣(ママ)に迎え、居城を稲葉地に構え」たとし、敏元は信長の母
          の姉(小田井城主織田良頼の娘)を室に迎えたとある。この場合、信長の伯父は敏元
          ということになり、やはり「信長の伯父津田豊後」という記述とは合わない。また、織田
          敏定は岩倉織田家と激しく対立した清洲織田家の祖であり、豊後守が岩倉織田家の
          出身とするなら、それを敏定が庇護するというのは違和感がある。
           凌雲寺には、幼少の信長が手習いに預けられたと伝わる。信長は天文三年(1534)
          の生まれなので、当時の城主は津田玄蕃とみられる。
           天文二十一年(1552)、清洲織田家と対立した信長は、当時守山城主であった信光
          の軍勢と稲葉地で合流し、庄内川を渡って萱津の戦いに及んだ。
           玄蕃の子与三郎は、永禄三年(1560)の桶狭間の戦いで討ち死にし、その子とみら
          れる小藤次は、天正十年(1582)の本能寺の変で戦死した。稲葉地城がいつごろまで
          存続したのかは詳らかでない。


       <手記>
           城屋敷神明社一帯が稲葉地城跡とされ、境内に城址碑や各種説明板が設置されて
          います。遺構らしきものは見られず、神社のほか信長ゆかりの凌雲寺を訪ねるくらいと
          なっています。
           稲葉地城については、上述のとおり城主津田豊後守の素性が最大の論点といえるで
          しょう。信光とするものついては、やはり信長の伯父ではなく叔父であること、宝篋印塔
          の没年と合わないことから、比定すべきではないかと考えます。
           他方で、現地説明板の織田敏元云々についても、上に述べたように整合性の面から
          あちこちに綻びがみられ、そのまま受け入れるわけにはいきません。とはいえ、津田は
          は織田氏の庶流によく用いられる姓である点や、信秀に兄がいたという記述がみられ
          ないことから、織田氏に連なる誰かが信秀の姉を娶って稲葉地城を築いたとするのが、
          最もあり得る流れではないかなと思います。

           
 稲葉地城址碑と城屋敷神明社。
幼少の信長が手習いをしたと伝わる凌雲寺。 


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