石田城(いしだ)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 石田氏か
 遺構  : 堀跡、土塁
 交通  : 小田急線愛甲石田駅徒歩7分


       <沿革>
           石田郷を支配した三浦党の一族石田氏の居城と推測されている。『三浦系図』など
          によれば、石田氏は桓武平氏流三浦義明の甥蘆名為景の子次郎為久にはじまる。
          石田為久は、源平合戦で木曽義仲を討ち取ったことで知られる人物である(ただし、
          『愚管抄』では伊勢義盛が討ち取ったとしている)。
           為久以降の石田氏について、詳細は不明である。『小田原衆所領役帳』によれば、
          石田は後北条氏の御馬廻衆藤田大蔵丞の所領であった。しかし、このころまで城が
          使われていたかどうかは定かでない。


       <手記>
           石田城は北から延びる舌状台地の先端にあったとされる城です。史料による裏付け
          はありませんが、地元の伝承や散見される遺構、あるいは周囲の字名などから、城館
          が存在したことは間違いないだろうと思われます。
           とくに東光寺の西側、旧家の裏手にある堀跡と土塁は、わりとはっきり残っています
          (上の地図の上側のライン)。また、台地の先端近くにあるマンションは、北側に対して
          かなり低くなっています。この段差はマンション西側の住宅地まで東西方向に一直線
          に伸びており(上の地図の下側のライン)、堀跡と推測されています。台地の先端は、
          スポーツジムのコートとなっています。
           これらの遺構から、石田城は舌状台地を最低でも2条の堀と土塁で切った城である
          と考えられます。その規模や構造からみて、石田城は為久以降も室町時代初期くらい
          までは使用されていたものとみるのが妥当と思われます。

           
 東光寺西の空堀跡。
東光寺西の空堀に伴う土塁。 
 マンション裏手の空堀跡と思われる段差。


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