岩神城(いわがみ) | |
別称 : 朽木氏館、朽木氏岩神館、岩神殿 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 朽木氏 | |
遺構 : 土塁、石塁、堀 | |
交通 : JR湖西線安曇川駅よりバス 「岩瀬」バス停下車徒歩5分 |
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<沿革> 享禄元年(1528)、細川晴元・三好元長らに京を逐われた将軍足利義晴・細川高国らは、近江 へ逃れて朽木稙綱を頼った。稙綱は、岩神館を築いて、同四年(1531)まで2年半ほど義晴らを 匿った。館跡の興聖寺に残る旧秀隣寺庭園は、享禄元年に高国が作庭したものと伝えられる。 上記の通り、従来岩神館は義晴のために築かれた仮御所であるとされてきたが、『朽木文書』 中の売券などを基にした近年の研究の結果、それ以前からの朽木氏の館である可能性が浮上 してきた。朽木氏は、佐々木氏流高島高信の次男頼綱の三男義綱にはじまり、朽木谷は高信 の父佐々木信綱が承久三年(1221)の承久の乱の戦功として与えられた地であるが、岩神館が 朽木氏累代の館であったとすると、その建築年代には再考が必要である。 天文十八年(1549)の江口の戦いで、義晴と和睦していた晴元が三好長慶に敗れると、義晴 らは再び近江へ逃れた。義晴は逃亡先の近江坂本で死去し、義晴の子義藤が跡を継いだものの、 義藤は同二十年(1551)に朽木谷へ移った。このときの義藤の居所も岩神館であったものと推測 されるが、詳細は不明である。 翌天文二十一年(1552)に、義藤は長慶と和睦して帰洛したが、翌二十二年(1553)には再び 長慶と対立して敗れ、朽木谷に逃れている。以後、5年にわたり義藤は朽木に雌伏し、在朽中に 義輝と改名した。永禄元年(1558)、六角義賢の仲立ちによって義輝は長慶と和睦し、帰京した。 時期は不明だが、幾度も将軍を匿い、時代の戦乱に巻き込まれていくなかで、朽木氏は居館を 西山城麓の野尻に移したとみられている。岩神館のその後については不明である。現在館跡に 建つ興聖寺は、慶長十一年(1606)に朽木宣綱が安曇川対岸の上柏村指月谷にあった秀隣寺を 移したことにはじまる。 <手記> 国指定名勝となっている旧秀隣寺庭園と興聖寺境内一帯が館跡です。興聖寺南側の入口には なぜか冠木門が建てられており、その脇に説明板があります。この南辺は、石積みで固められて いるのですが、これが岩神館当時からの石塁であるかは微妙なところです。 岩神館のはっきりした遺構は、墓地の裏手となっている北西隅の、¬字型の空堀と土塁です。 ここから全体の縄張りを推測することは困難ですが、興聖寺境内全域が館跡とすると、将軍の仮 御所だっただけあって結構な規模になると思われます。 岩神館については、将軍がやってくる以前の朽木氏累代の居館であったとする説があります。 だとすれば、朽木稙綱は自身の館を改築して義晴に譲り、自身は別の館に写ったことになります。 他方で、中世朽木氏の居館は旧朽木村市場の朽木中学校周辺にあったのではないかとする説も 有力です。稙綱が岩神館を出たとすると、その移り先は市場の館か野尻の朽木陣屋周辺であった と推測されます。個人的には、私もやはり中世領主の居館としては市場の方がふさわしいかと思う ので、岩神館は南からの朽木谷への出入りを監視する城館だったのではないかと考えています。 |
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興聖寺南辺の入口。 | |
興聖寺本堂。 | |
西辺の堀と土塁。 | |
北辺の堀と土塁。 | |
おまけ:雪の旧秀隣寺庭園その1。 | |
おまけ:雪の旧秀隣寺庭園その2。 |