岡部城(おかべ)
 別称  : 泉田館
 分類  : 山城
 築城者: 岡部義綱か
 遺構  : 曲輪、堀、土塁、虎口
 交通  : 常磐自動車道いわき湯本ICより車で7分


       <沿革>
           佐竹氏庶流岡部氏の居城とされる。岡部氏は、佐竹氏4代佐竹義重の四男義綱(重綱)が、
          鎌倉幕府6代将軍宗尊親王に仕え、当時は久我家領であった菊多郡泉田郷を賜ったことに
          はじまるとされる。岡部の姓は、義綱が城を築いた地名が由来とも山の名前にちなむともいわ
          れるが、どちらも名称も今日には残っていない。
           戦国時代になって岩城氏の勢力が伸長すると、岡部氏はその傘下に入ったとされる。その
          岩城氏も、1570年代ごろには岡部氏の本家にあたる佐竹氏に従属した。天正十六年(1588)
          の郡山合戦に際しては、岡部重忠が佐竹義重(18代)に従って、須賀川に出陣している。
           慶長五年(1600)、徳川家康の上杉征伐に際し、重忠は佐竹家臣車斯忠らとともに、上杉家
          救援の兵を率いて会津に赴いた。しかし、関ヶ原の戦いで西軍が敗れたため帰還しようとした
          ものの、伊達家の兵に阻まれて本領には戻れなくなり、佐竹家を頼って常陸に落ち延びた。
          これにより、岡部城も廃城となったと思われる。


       <手記>
           岡部城は、岩崎川の支脈が複雑な谷戸を形成している、比高50mほどの小高い山の上に
          あります。城跡へ向かうには、まず1つ北側の峰先にある墓地を目指します。墓地の入口には
          小型車なら十分に停められるスペースがあります。
           墓地は大きく2〜3段になっていて、あるいは城の出丸とも考えられます。その場合、墓地の
          裏手に鎮座する「ほうそう神社」という小社がピークにあたり、出丸の中心部となると思われる
          のですが社殿の周囲が削られているため旧地形は判然としません。
           神社から南に向かうと、尾根を切る堀切と思われる地形が認められます。道はその先で2又
          に分かれるのですが、そこを左に折れると、いよいよ主城域です。明確な堀切と、土塁で狭め
          られた虎口が出迎えてくれ、戦国時代後期の改修を受けた城であることをうかがわせます。
           主城域は3段程度の削平地から成り、東には土塁線が、西辺には帯曲輪が延びています。
          曲輪間には堀の造作はとりたてて見られないものの、帯曲輪の中途には仕切り土塁の痕跡
          があるなど防備上の工夫が感じられます。山頂の主郭には小さな石祠がありますが、全体的
          に藪化が進行していて、見通しはよくありません。
           岡部城は、もし墓地まで城域に含まれるとすると、周辺の諸城に比べてやや規模の大きな
          城といえます。岡部氏が佐竹一族であり、かつ岩城氏にも顔が利くということから、佐竹氏の
          意向を受けて、戦国時代後期に改修の手が入れられたとも考えられます。
           逆に、岡部氏が鎌倉時代に端を発するとして、最初からこの山に城砦を築いていたとは考え
          にくいでしょう。ここで、墓地に上がる山道の分岐点の北東側には、やや深い谷を堰き止めた
          道路の先に、字台という畑地があります。主城域から延びる裾野の先端部にあたり、傾斜も
          緩やかなことから、あるいは義綱時代からの館はここに置かれていたのではないかとも推察
          されます。

           
 主城域入口の堀切。
堀切から続く竪堀。 
 堀切の先の虎口を形成する土塁。
主城域北西下段のようす。 
左手に土塁線。奥が主郭方面。 
 主郭脇の帯曲輪。
帯曲輪中途の仕切り土塁。 
 主郭のようす。
主郭の石祠。 
 ほうそう神社。
 神社から主城域へ向かう途中の堀切状地形。 
 段築になっている墓地。
 出丸跡か。


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