岩崎館(いわさき) | |
別称 : 岩崎氏館、立広砦 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 岩崎氏か | |
遺構 : 削平地、堀跡、切岸 | |
交通 : JR中央本線勝沼ぶどう郷駅よりバス 「図書館・文化館」バス停下車徒歩5分 |
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<沿革> 現地説明板や昭文社の地図などでは「岩崎氏館」とされているが、岩崎氏がこの館に 拠っていたという確証は、得られていない。『甲斐国志』では「岩崎館」とされている。 『尊卑文脈』によれば、岩崎氏は武田信光の子七郎信隆にはじまるとされる。信光は、 源平合戦や承久の乱で活躍した鎌倉時代初期の人物である。他方の信隆については、 『吾妻鏡』の寛元二年(1244)正月の項に「武田七郎」が射手としてみえるのみである。 『国志』によれば、岩崎氏の存在が確認される史料上の初出は「岩崎一分ノ地頭武田 筑前守武政」の名がみられる嘉元二年(1306)の記録であるとされる。ただし、武政は 『文脈』には現れない名なので、岩崎氏の系譜上どの位置に置かれる人物であるかは 不明である。 『国志』によれば、岩崎氏は甲斐源氏棟梁に相伝される「楯無」「射礼」の鎧と旗を、 信隆より8代にわたって受け継ぎ、岩崎直信の代になって守護武田信重に譲られたと される。これが事実であれば、岩崎氏は武田宗家に匹敵する勢力をもった有力分家で あったと推測される。 長禄元年(1457)、信重の孫信昌と守護代跡部氏との争いに巻き込まれ、岩崎氏は 一族のほとんどを失ったとされる(『一蓮寺過去帳』)。このとき、岩崎氏がどちらの側に ついていたのかは定かでない。また、信昌はこのときまだ10歳の少年であり、率先して 跡部氏に挑戦したとは考えにくく、岩崎氏没落の経緯については詳らかでない。岩崎 周辺は、その後跡部氏の所領に組み込まれた。 ここまで岩崎氏の沿革についてまとめてきたが、上述の通り岩崎館が岩崎氏の居館 であったという確証はなく、存続期間なども不明である。 ちなみにこれ以降の岩崎氏の動向は明らかでないが、三菱財閥創業者岩崎弥太郎 は、甲斐岩崎氏の末裔を称している。 <手記> 岩崎館は、日川の支流田草川の河岸に築かれた城です。国道20号線勝沼バイパス の下岩崎交差点脇の側道沿いに、説明板が建てられています。この側道は館の南辺 の堀跡のようで、道路建設に先だって発掘調査が行われています。しかし、この調査 でも、館の年代測定はできなかったようです。ただ、15世紀初頭と目される茶碗の欠片 が発掘されたことから、岩崎氏没落までは存続していたとみられているようです。 館は北の河岸と三方の堀に囲まれていましたが、西辺の堀は道路となっています。 東辺の堀も生活道路となっていますが、こちらは切岸も含めていくぶん旧態をとどめて いるようです。『日本城郭大系』によれば、かつては南辺の堀から東辺の堀を伝って、 田草川へ注ぐ小流があったそうです。館内部は民家や畑になっており、畑の中心に、 館内を東西に分けていたと思われる南北方向の凹部が見受けられました。また、館の 南西隅が一段低い削平地となっていて、腰曲輪とみられています。 岩崎館については、上述の通り岩崎氏の居館なのかどうかという点が大きな争点と なっています。『大系』では、館の立地が岩崎氏の興った鎌倉時代初期には合わない とする見解を示し、また同没落後の使用を考慮する必要があるとしています。 この点について、私としては開発領主岩崎氏の居館とみて良いのではないかと考え ています。たしかに、甲斐では平地に構えられた館が多くみられますが、谷戸に臨む 河岸という選地も、丘陵部では一般的にみられます。とくに岩崎館は、田草川の水源 近くに位置しており、「この流域を開発しよう」という意志が感じられます。 また『大系』では、自説の補強として北東約1qに位置する勝沼氏館との類似を挙げ ています。勝沼氏は信昌の孫信友にはじまり、永禄三年(1560)まで存続したので、 その館と同じ構造をもつ岩崎館も同年代の遺構であるという論理のようですが、あまり 説得力があるようには思えません。むしろ、現在の甲州街道を山と川とで挟み込んで 扼する勝沼氏館に対して、岩崎館は甲州街道からも鎌倉往還(御坂みち)からも微妙 に離れており、開発領主以外が利用するメリットがあまりないように思われます。 |
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岩崎(氏)館説明板。 手前道路側は堀跡。 |
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南西から田草川越しに館跡を望む。 | |
北西隅の一段下がった削平地。 | |
東辺の堀底から館跡を見上げる。 | |
館跡周辺からの眺望。 |