岩屋城(いわや)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 高橋鑑種
 遺構  : 曲輪跡、櫓台、土塁、堀
 交通  : 西鉄太宰府駅徒歩40分


       <沿革>
           宝満山城主高橋鑑種によって、天文年間(1532〜54)に支城として築かれたと伝わる。高橋氏は、
          九州の古代名族大蔵氏の末裔で原田氏の分流とされるが、詳しい系譜は明らかでない。鑑種は、
          大友氏庶流一万田親泰の次男で、天文十八年(1549)に高橋長種が嗣子なく没すると、大友義鑑
          の命によりその後を継いだ。したがって、伝承が正しいとするならば、岩屋築城は天文十八年以降
          の5年間の出来事と考えられる。
           永禄十年(1567)、鑑種は古処山城主秋月種実や五ヶ山城主筑紫惟門らとともに毛利氏に通じて
          大友氏から離反した。背景には、鑑種の兄弟である一万田親実(鑑相)や宗像鑑久が大友宗麟の
          命により攻め滅ぼされたこと、とくに兄親実はその妻を宗麟に横恋慕された末の殺害であったことが
          挙げられるといわれる。親実や鑑久の殺害が直接の原因であったかは不明だが、鑑種の離反行動
          は以前から水面下で計画が進められていたといわれ、宗麟の方針そのものに不満を抱き、毛利氏
          への鞍替えを図ったものと推測される。
           翌永禄十一年(1568)には、鑑種らの蜂起に立花鑑載や宗像氏貞、原田隆種が呼応し、筑前は
          内乱状態に陥った。翌十二年(1569)、頼みの綱の毛利勢が、宗麟の仕掛けた大内輝弘の乱により
          撤退してしまうと、戸次鑑連(後の立花道雪)率いる討伐軍に降伏した。この討伐軍には、鑑種の甥
          (親実の子)一万田鑑実も加わっていた。鑑種は城を逐われ、毛利氏を頼って落ち延びた。その後、
          大友氏重臣吉弘鑑理の次男鎮理が、宗麟の命により高橋氏を継ぎ、鎮種と改名した。鎮種は、後に
          出家して紹運と号した。
           天正十三年(1585)、宝満山城が筑紫広門に奪われたため、筑後に出陣中だった紹運は軍を返し、
          これを攻めた。広門は、娘を紹運の次男統増の室に迎えることを条件に開城し、統増が宝満山城主
          となり、紹運は岩屋城に入った。
           翌天正十四年(1586)、島津氏が九州平定を目指して大軍を率いて北上すると、立花道雪の養子
          となって立花山城主を継いでいた紹運の長男統虎は、父に立花山城へ籠城するよう進めた。しかし、
          紹運は寡兵をもって岩屋城に籠る道を選び、統増の宝満山城とともに3城体制で筑前の守りとした。
          同年七月十四日、島津忠長を総大将とする島津軍は、岩屋城麓の大宰府観世音寺に本陣を置いた
          (島津義弘が総大将とされることも多いが、これは誤りとされる)。島津軍の総数は2万〜10万と諸説
          ありはっきりしない。これに対し、岩屋城に籠る高橋勢は、紹運以下わずか763名であった。島津軍
          は四方から攻めたてたが、被害が増えるばかりで一向に攻め落とすことはできなかった。とはいえ、
          歴然とした兵力の差は埋めがたく、島津軍からだけでなく、味方の統虎や到着が待たれる豊臣秀吉
          軍からも、開城して退くよう勧告がなされた。しかし、紹運は主家への忠義を説いて降伏をよしとせず、
          徹底抗戦の構えをとった。筑前でできるだけ島津軍を足止めし、豊臣軍の上陸ポイントを確保すること
          が、大友家を救う唯一の道であると考えていたものと推察される。
           半月弱にわたり島津軍の猛攻を耐え忍んだものの、同七月二十七日、紹運以下全員が討ち死に、
          または自害した。紹運は、本丸高櫓の柱に辞世の句を書きつけた後、高櫓の上で切腹したとされる。
          島津勢の被害は、戦死傷者3千人余を数えたといわれる。まもなく宝満山城も開城し、島津軍は立花
          山城へと向かったが、統虎も父と同じく優れた采配を見せ、再び攻城に手間取っている間に豊臣軍が
          上陸した。島津勢は囲みを解いて撤退し、統虎は岩屋城・宝満山城を奪回した。
           翌天正十五年(1587)に秀吉による九州平定が成ると、岩屋城は廃城となった。

          
       <手記>
           岩屋城は、大野城跡として知られる四王寺山脈から突き出た支峰上にありました。眼下に大宰府
          の平原が広がり、博多と筑後を結ぶ要衝を扼する城といえます。本丸と二の丸の間に林道が通り、
          2台分ほどの駐車スペースがあるため、車での訪城が便利です。
           逆に、この林道によって城跡は部分的に破壊されてしまっていますが、主城域の遺構はおおむね
          良好に残っています。本丸には、城址碑のなかではもっとも有名なものの1つと思われる「嗚呼壮烈
          岩屋城址」の石碑があります。本丸の山側に櫓台があり、その上にはちょっと隠れて見づらい位置
          に石祠があります。他にお社などは見当たらないので、ここで手を合わせるのが良いと思います。
           本丸とその下段の腰曲輪あたりまで樹木が切り払われていて、大宰府政庁跡や天満宮など山麓
          の景色が広がります。本丸背後に大堀切があり、さらにその奥の尾根筋にもだいぶ埋まっています
          が、2〜3条の堀切跡が連なっています。
           林道を挟んだ本丸の南西には紹運の墓があり、周囲は削平地となっています。ここは二の丸跡と
          されており、おそらく城内で本丸に次いで広い曲輪と思われます。二の丸の付け根から、麓へと続く
          遊歩道が延びており、大宰府政庁跡や観世音寺跡に通じているようです。歩いて訪れる場合には、
          太宰府駅から距離ばかり長い林道を登るよりは、こちらの遊歩道を使った方が良いように思います。
           岩屋城は、城を築くのに相応しい山ではありますが、名前のわりに岩が露出している箇所もなく、
          四方から攻められるという弱点があり、大軍を相手するのに適した城とはいえないように感じます。
          しかしながら、この岩屋城で2週間もの間50倍近い敵を釘付けにできたというのは、ひとえに紹運の
          采配力の高さと、少数精鋭の籠城兵の士気・結束の高さの成せる業だったものと思われます。

           
 大宰府政庁跡から岩屋城址を望む。
本丸の「嗚呼壮烈岩屋城址」碑。 
 本丸高櫓台。
櫓台から本丸を俯瞰する。 
 本丸から一段下の腰曲輪を望む。
 画面奥の白い建物は九州国立博物館。
本丸背後の大堀切。 
 大堀切背後の連続堀切。
二の丸のようす。画面奥にあるのが高橋紹運の墓。 
 本丸からの眺望。
 画面中央右手の方形空き地が大宰府政庁跡。


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