大野城(おおの)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 中大兄皇子
 遺構  : 石垣、土塁、礎石、門跡
 交通  : 西鉄太宰府駅徒歩60分


       <沿革>
           天智天皇二年(663)の白村江の戦いでの敗北により、唐・新羅軍の日本上陸の危険性が
          高まると、中大兄皇子の命により翌年(664)に水城が建造された。その翌年の同四年(665)
          に、大野城は「椽城(基肄城)」とともに築かれた。建設には、朝鮮半島より亡命した百済の
          官人「憶礼福留(おくらいふくる)」と「四比福夫(しひふくふ)」の2人が監督にあたったとされる。
          大野城らが朝鮮式山城と呼ばれる所以である。
           しかし、危惧された大陸軍の本土上陸はなく、次第に大野城はじめ朝鮮式山城の重要性は
          低下していったものと考えられる。宝亀五年(774)には、光仁天皇の勅願により、大野城を
          形成する山脈の山頂に円満山四王寺が建立された。このころには、もはや城として顧みられ
          なくなっていたものと推測される。

          
       <手記>
           大野城は、大宰府政庁背後の通称四王寺山脈に築かれた朝鮮式山城です。四王寺山脈
          はカルデラのような擂鉢状の山塊で、その外輪山の稜線に土塁や石垣が築かれています。
          スタンスとして基本的には土塁を用い、谷になっている場所には石垣を渡してあるようです。
          つまり、石垣は土塁線上に分散して存在しており、それぞれ百間石垣や大石垣、小石垣など
          と呼ばれています。外輪山い沿って全体を見て回ろうとすれば1日がかりのハイキングになり
          ますが、私は城内を南北に貫く幹線沿いの、北の百間石垣と南の大宰府口門跡付近を車で
          見学しました。
           百間石垣は、170〜80mに及ぶ長大な石垣です。大陸由来の技術で築かれただけあって、
          壁面は山肌に沿ってカーブしています。昭和四十八年(1973)の集中豪雨による出水で端の
          部分に損傷を受け、保存整備に先だって調査が行われたそうです。今は治山工事に伴って
          歩道が整備され、石垣の真下も真上も歩けるようになっています。ただし、破損個所以外は
          修復されていないのか、積年の重圧で石垣は至る所で中心から大きく孕み、水がしみ出て
          いるところも少なくありませんでした。上を歩くのがちょっと怖いレベルですので、早期の補修
          工事が望まれます。
           幹線道路と外輪山の交点付近は展望台として整備され、眼下に太宰府の市街地が望め
          ます。土塁の上は歩けるようになっていて、途中に版築土塁の断面が展示されている箇所
          があります(レプリカか)。また、城内に散在する倉庫や兵舎跡と思われる建物礎石群の1つ
          である、尾花礎石群もそばにあります。大宰府口門は、展望台から少し下ったところにあり、
          礎石や両脇の土塁が残っています。しかし調査の結果、当初は掘立柱形式であったことが
          明らかとなっています。また、門背後には石垣で囲まれた貯水池と思しき空間があります。
           大野城跡へは麓の太宰府駅などから徒歩で登ることもできますが、大宰府口展望台の脇
          には広い無料駐車場が完備されているので、やはり車での訪城をおすすめします。

           
 大宰府政庁跡から大野城跡の四王寺山脈を望む。
百間石垣を見上げる。 
 百間石垣近望。
至るところ孕みがひどく、水が染み出ています。 
 大宰府口の土塁上に立つ城址碑。
大宰府口の土塁。 
 版築土塁断面の見本。
尾花礎石群。 
 大宰府口門跡。
同じく大宰府口門跡を城外側から。 
 大宰府口門脇の石垣。
貯水池跡か。 
 土塁上から太宰府市街を見下ろす。
 中央右手の白い建物が九州国立博物館。


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