泉小次郎親衡館(いずみこじろうちかひら) | |
別称 : 中和田城、天王山城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 泉親衡 | |
遺構 : 堀、土塁、土橋 | |
交通 : 相鉄いずみ野線いずみ中央駅徒歩5分 | |
<沿革> 鎌倉時代初期の御家人泉小次郎親衡の居館跡と伝わる。泉氏は信濃源氏の一族で、源満快 の曽孫為公にはじまり、信濃国小県郡小泉荘を本貫とするとされる。 建暦三年(1213)、親衡は源頼家の遺児千寿丸を擁立し、執権北条氏を排除しようと画策した。 しかし、千葉成胤に協力を求めて郎党青栗七郎の弟の安念坊を派遣したところ、逆に安念坊は 捕えられてしまい、計画は露見した。親衡は捕縛に差し向けられた使者らと一戦を交えたのち、 逐電した(泉親衡の乱)。 親衡のその後は定かでないが、上杉家重臣岩井信能など、北信地方には泉氏後裔を名乗る 武家が少なくない。 <手記> いずみ中央駅南東の泉中央公園が館跡です。舌状台地というほどではありませんが、和泉川 の谷戸に臨んでせり出した台地のへりに選地しています。公園の南端に堀と土塁および土橋が、 東辺に土塁が残っています。東辺の土塁先にある道路も堀跡といわれ、崖端の方形館のような 城館であったものと推測されます。西辺斜面下には、馬洗い池と呼ばれる湧水も残っています。 駅側には、泉小次郎の創建とされる長福寺と須賀神社があります。長福寺は、かつては館跡 の南麓にあったようです。 このように、館跡周辺には泉親衡関連の伝承地が点在しているのですが、このあたりが泉氏の 所領であったことを示す確証があるのか、個人的に少々疑問に感じます。泉氏の本貫地は信濃 の小県郡ですから、鎌倉幕府から恩賞として与えられない限り、相模国に所領をもつのは不自然 と思われます。和泉村という地名から泉氏を付会しただけなのではないかとも考えられるのです が、この点について明確な説明をしている資料は、管見の限りありませんでした。 戦国時代には、後北条氏家臣の笠原藤左衛門康明が和泉村を治めていたようですが、規模や 構造の面から後北条氏の時代まで下るということはないようにも思います。したがって、室町時代 中期以前の領主の館跡とみるのが妥当なように推察されるのですが、見事な遺構が残っている のに比して、謎の深い城館といえます。 |
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南端の堀と土塁。 | |
同上。 | |
土橋跡か。 | |
東辺の土塁。 | |
馬洗い池。 | |
長福寺。 | |
須賀神社。 |