| ヤークトベルク城 (Burg Jagdberg) |
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| 別称 : ニュツィダース城 | |
| 分類 : 平山城(Höhenburg) | |
| 築城者: モーントフォルト家か | |
| 交通 : Schlins-Beschling駅から徒歩25分 | |
| 地図 :(Google マップ) | |
<沿革> 13世紀後半にモーントフォルト伯によって築かれたとみられている。1300年に、モーントフォルト家 の一流であるモーントフォルト=フェルトキルヒ伯ルドルフ2世が息子のフーゴー4世にヤークトベルク の城と所領を与え、フーゴー4世はフォン・ヤークトベルクを称した。これがヤークトベルク城に関する 史料上の初出とされる。1310年にフーゴー4世が暗殺されると、遺領は弟のルドルフ3世とウルリヒ 2世が相続した。1397年にモーントフォルト=フェルトキルヒ伯ルドルフ5世が死去すると、チロル伯を 兼ね、1375年にルドルフ5世からフェルトキルヒを購入していたハプスブルク家がヤークトベルク城も 取得した。 1403年にアッペンツェル市がザンクト・ガレン修道院からの独立を標榜してアッペンツェル戦争が 勃発すると、ハプスブルク家は修道院側を支援したため、ヤークトベルク城はアッペンツェル市らが 結成した「越湖同盟(Bund ob dem See)」軍によって1405年9月28日に攻め落とされ、破壊された。 1408年にはオーストリア公フリードリヒ4世によって再建されたが、一方で城はフェルトキルヒ市民の ウルリヒ・ヴィッテンバッハの抵当に入れられ、その代官が常住することとなった。 1499年4月20日、シュヴァーベン戦争(スイス戦争)におけるフラスタンツの戦いがヤークトベルク の北西で行われ、スイス同盟軍が神聖ローマ帝国軍に勝利した。スイス軍は余勢を駆って周辺で 略奪をはたらき、ヤークトベルク城も焼け落ちたとされる。城の再建は1559年に至り、抵当権者の アキレス・フォン・アルトマンハウゼンによって成された。 その後も、担保として城の所有権はさまざまな家に渡り、1750年以降は荒廃が一気に進行した。 1791年には城内にあった聖ミカエル礼拝堂が取り壊され、事実上の廃城となった。 1911年と1938~41年、そして1951~53年に大規模な修復と再建が行われた。1949年には野外 劇場が城内に設けられ、今日もイベント会場として利用されている。 <手記> ヤークトベルク城はフェルトキルヒとブルーデンツの中間、シュリンスの集落背後の丘上に築かれ ています。直訳すれば狩山城という勇ましい名前なのですが、丘陵はたいへん緩やかで地形上の 要害性は無いに等しいといえます。初期の頃から、防衛拠点というよりは宮殿や象徴としての役割 が主だったというのも頷けるでしょう。 上述のとおり、今は野外のイベント会場として運営されていて、催し物がなければ城内への門は 閉ざされているようです。なので周囲から環状城壁を見上げる程度だったのですが、近年は戦前の 誤った修復箇所を史料に基づいて修繕し直したりといったことも行われているようです。もちろん、 できれば城内に入りたいところですが、高々とした城壁を仰ぐだけでもある程度の満足感は得られ ました。 |
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| 南西から城跡を望む。 | |
| 一の門跡。 | |
| 城内への主門は閉ざされていました。 | |
| 南東隅の宮殿跡の城壁。 | |
| 西辺の城壁を見上げる。 | |
| 同上。 | |
| 北西隅の城壁。 | |
| 北端の城壁。 | |
| 城山からの眺望。 | |