十七条城(じゅうしちじょう)
 別称  : 舟木城
 分類  : 平城
 築城者: 舟木頼胤
 遺構  : 曲輪跡、土塁、堀
 交通  : 樽見鉄道美江寺駅徒歩15分


       <沿革>
           南北朝時代初頭、舟木頼胤によって築城された。頼胤は美濃守護土岐頼貞の子とされる。
          頼胤の子武藤頼実は戦死し、その後は二階堂氏・仙石氏・和田氏が相次いで居城した。
           享禄年間(1528〜31)、十七条城は林正長によってに改築されたとされる。林氏は稲葉氏と
          同じ河野氏流を称しているが、詳しい出自は定かでない。正長の子玄蕃は、永禄五年(1562)
          の軽海の戦いで戦死した。林氏は玄蕃の弟正三が継いだ。正三は、後に家康に仕えて2万石
          を領した。
           正三の子は稲葉一鉄良通の子重通の養子となり、正成と称した。正成は小早川秀秋付きの
          家老となったが、慶長七年(1602)に小早川家が断絶すると浪人となった。同九年(1604)には
          後妻の福(春日局)が徳川家光の乳母に抜擢された。このとき正成は福を離縁したが、その後
          家康に召しだされて、同十二年(1607)に十七条城1万石を与えられた。
           寛永四年(1627)、正成は真岡蕃2万石へ転封となり、十七条藩は廃蕃となった。正成の子
          のうち、三男正定は尾張徳川家に仕えて十七条に留まり、1千石を与えられた。しかし、孫の
          代で無嗣断絶となり、ここに十七条城は廃城となった。


       <手記>
           現在、城の本丸域は個人宅となっています。ただその周囲には堀跡と土塁がめぐっていて、
          往時を偲ぶには充分といえます。石碑も建てられているのですが、藪が鬱蒼としていて探す
          のは大変です。
           本丸への道は、舗装されているものの不自然に曲がった畦道なので、もしかすると当時の
          縄張りのままなのではないかとも考えられます。
           城の北端にある熊野神社に、十七条城の沿革を記した説明板があります。


           
 本丸を望む。
城址石碑。かなり分かりづらいので注意。 


BACK