葛山城(かづらやま)
付葛山館(かづらやま)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 葛山氏
 遺構  : 曲輪、土塁、堀、虎口
 交通  : JR御殿場線裾野駅からバス
       「御宿」バス停下車徒歩20分


       <沿革>
           駿東の大身領主葛山氏の居城である。葛山氏は同じく駿東の名族有力氏族大森氏の
          庶流で、大森親康の子ないし弟惟兼にはじまるとされる。大森氏は藤原伊周の子忠頼
          の子孫ともいわれるが、忠頼の実在が確認できないため仮冒とみる向きが強い。
           惟兼の孫惟重のころに源頼朝に従ったとみられ、鎌倉時代初期には葛山広重や葛山
          景倫の名が御家人として登場する。
           室町時代に入り、6代将軍足利義教のころに葛山氏は幕府の奉公衆となり勢力を拡大
          した。これは、葛山が幕府と対立する鎌倉府に近く、さらに隣接する甲斐国の武田氏が
          内乱状態に陥っていたことから、駿東の有力者葛山氏を幕府側に取り込む利用価値が
          高まったためと推測されている。葛山城はこうした周辺状況のなかで建設されたものと
          考えられるが、詳しい築城時期は定かでない。
           伊勢宗瑞(北条早雲)が伊豆・相模を奪取して戦国大名化すると、宗瑞の子ないし孫の
          氏広が葛山氏の養子となって家督を継いだ。宗瑞の側室には葛山氏の娘がいたとされ、
          氏広は同氏の血を引いていたとも考えられている。ただし、葛山氏自体は一貫して今川
          氏の重臣と位置づけられている。氏広の跡は、子とも養子ともいわれる氏元が継いだ。
           永禄十一年(1568)に武田信玄による駿河侵攻が行われると、氏元は武田氏に通じて
          所領を安堵された。元亀元年(1570)には北条氏が葛山城を奪取したが、翌二年(1571)
          に甲相同盟が成立すると、葛山領は武田氏に還された。
           しかし、葛山氏の家督はまもなく信玄六男の信貞が継承した。信貞は氏元の娘おふち
          を迎えたが、葛山城には赴かず、現地の政務は葛山氏庶流の御宿友綱が執っていたと
          される。甲相同盟成立後の氏元の動静については詳らかでないが、一般には天正元年
          (1573)までの間に信玄によって誅殺されたとみられている。
           天正十年(1582)に織田信長によって武田氏が攻め滅ぼされると、信貞は甲斐善光寺
          で処刑ないし自害を命ぜられた。葛山氏はこれにより滅亡したが、このとき葛山城で戦闘
          があったかについては定かでない。御宿友綱とその子勘兵衛政友は北条氏に仕えた。
          その後、駿河を領有した徳川氏が葛山城を利用した形跡はなく、廃城となったものと考え
          られる。


       <手記>
           葛山は愛鷹山から派生する峰に三方を囲まれ、さらに佐野川を挟んだ東側も台地状に
          なっています。土地そのものが要害といえますが、そのぶん足柄街道からは一本外れて
          おり、大森氏が治めた御殿場周辺と比べると、交通の利という点ではやや劣っている感
          が否めません。
           仙年寺の裏山が城跡で、境内裏から階段が整備されています。登りつめると早速2条
          の堀切がお出迎え。これが東端の堀切となります。葛山城は本丸とその下の帯曲輪状
          の二の丸、そしてさらにもう2段下に横堀を兼ねた帯曲輪という3段構成となっています。
          西側も東と同様に2条堀切で断絶しているほか、本丸北側斜面には畝条竪堀が施され
          ています。また、南側の横堀兼帯曲輪の下にも2条竪堀が設けられていて、そのうち1本
          は尾根の角に掘られています。
           全体としてコンパクトながらシステマティックな城といった印象ですが、規模はお世辞
          にも大きいとはいえません。北条氏と武田氏の直系が養子に入った葛山氏の居城です
          から、もっと大きく整備されていても不思議ではありません。現地説明板でもその思いが
          強く出ているようで、左右に1つずつある小ピークや東麓の尾根先まで城域に含めるか
          のように表記されています。ですが、私の見たところではそこまで城域が広がっている
          ようには感じられませんでした。何より、主峰左右の頸部を2条堀切で断ち切っているの
          ですから、やはりここが端っこなのでしょう。
           私の手持ちの資料でも多くは同様の見解ですが、学研の『戦国の城 下』では仙年寺
          の東の尾根先を出丸状の曲輪跡としています。現地では袖曲輪と名付けられ、たしか
          に尾根先の付け根に堀状の溝が認められます。ですが、これを堀切とみるのは無理が
          あるように思われ、個人的にはお寺から東に抜けるための小道の跡ではないかと推測
          しています。
           葛山城が、先述の通り北条氏・武田氏の双方から養子を迎えていながらあまり改修
          を加えられたようすがないのは、両氏とも葛山の名跡と土地には注目しているものの、
          城そのものについての戦略的価値は低くみていたからではないかと考えられます。
           され、葛山城のもう1つの見どころは、城山南麓の大久保川沿いに残る葛山館跡で
          しょう。両者を別の城館扱いとするサイトが多いのですが、両者は山城と根小屋の関係
          にあるので、不可分一体とみるべきだと考えます。元は方形と思われる館跡の土塁の
          うち、北辺全部と東辺・西辺の一部が良好な形で残っています。
           虎口は北辺東側と西辺北側に開いていたようで、後者の脇には小さなお社が祀られ
          ています。館内は畑地となっていて、所有者の方のご厚意によって拝見可能となって
          いるようです。ほかにも、周辺には家臣団屋敷と推定される字や地形が残っているそう
          で、準戦国大名クラスの城下集落を形成していたものと思われます。
           ここで1つ疑問に思ったのは、葛山館が本当に葛山城主の居館なのか、という点です。
          葛山館は城山からはいくぶん離れており、領主の館跡としてはあまりみられない選地
          のように感じられます。むしろ、城山山麓の窪地にある仙年寺の境内の方が典型的な
          館地形といえるでしょう。少なくとも、開拓期の葛山氏の居館はこちらに置かれていた
          と考えて差し支えないように思います。あるいは、葛山館は武田氏配下時代の実質的
          政務執行者であった御宿氏の役宅だったと考えることもできるのではないでしょうか。
           このようにとてもよく整備されているうえに遺構もよく残っている葛山城には、ときには
          観光バスもやってくるそうです。もしお時間があれば、葛山から旧道の峠を1つ南に越え
          た景ヶ島(けがしま)渓谷を訪ねてみると良いでしょう。溶岩性の白っぽく美しい奇勝で、
          ここに建つ依京寺は、かつてかなりの規模があったようです。葛山氏全盛期を偲ぶこと
          ができるところといえるのではないでしょうか。

           
 葛山城山遠望。
本丸と土塁。 
 二の丸のようす。
二の丸虎口。 
 二の丸から続く帯曲輪。
本丸北側下の畝状竪堀群。 
 西の堀切1条目。
同2条目。 
 二の丸南側下の横堀を兼ねた帯曲輪。
帯曲輪下の竪堀。 
 東の堀切1条目。
同2条目。 
 東の2条堀切から続く竪堀を見上げる。
葛山館北辺の土塁。 
 同土塁を館内側から。
葛山館内の現況。 
 西辺土塁の虎口。
おまけ:景ヶ島渓谷の景色。 


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