神楽岡城(かぐらおか) | |
別称 : なし | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 不詳 | |
遺構 : 堀跡、削平地 | |
交通 : 京都市バス「京大正門前東一条」 バス停下車徒歩15分 |
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<沿革> 神楽岡とは吉田山の別称で、現在も吉田山一帯の地名を吉田神楽岡町という。 神楽岡城について明確に記された史料は見つかっていないが、神楽岡は南北朝 時代以来たびたび戦場となっている。 建武三年(1336)一月二十八日、神楽岡に陣取った足利尊氏勢と後醍醐天皇方 の軍勢との間で合戦となり(神楽岡の戦い)、この戦いも含め、前日の賀茂河原、 同三十日の糺河原での戦いと連敗を重ねた尊氏は、一時丹波国へと退いた。また 文和二年(1353)六月九日にも、足利義詮と南朝方の山名時氏・楠木正儀らとの 合戦が神楽岡で行われ、こちらも敗れた義詮は京都を逐われた。ただし、これらの 合戦に際して神楽岡に城砦が築かれた可能性は低いと思われる。 永禄四年(1561)七月二十八日、河内守護畠山高政と組んだ近江の六角義賢は、 三好長慶の勢力を駆逐せんと軍勢を率いて京へ進出した。義賢は、神楽岡に陣を 張ったとも勝軍山城に入ったともいわれる。同年十一月二十四日、神楽岡および 勝軍山城で六角勢と松永久秀ら三好勢の間で合戦となり(将軍地蔵山の戦い)、 勝軍山城は松永軍によって落とされた。このころには神楽岡に城が存在していた ものと思われるが、双方とも万を超える大軍が激突しており、六角勢は神楽岡のみ ならず吉田山全体に陣取っていたと考えられる。その後もしばらく六角勢と三好勢 のにらみ合いが続いたが、翌五年(1562)三月五日の久米田の戦いで三好実休 (義賢)が討ち死にすると、松永勢が京の保持を諦めて撤退したため、六角義賢は 神楽岡を出て入洛した。 『言継卿記』の永禄十一年(1568)九月二十七日の条に、上洛を果たした織田 信長の軍勢のうち江北郡衆・高島衆八千ばかりが、神楽岡に「布陣」したとある。 ここでも、城の存否は明らかでない。『兼見卿記』の元亀四年(1573)七月十四日 の条には、信長が明智光秀の進言を容れて吉田山への築城を企図し、柴田勝家 を実地検分に派遣したが、城を設けるには向かないとして断念した旨が記されて いる。したがって遅くともこれ以前には、神楽岡城は廃されていたものとみられる。 <手記> 吉田山の南端、現在の宗忠神社から吉田神葬墓地にかけての一帯に神楽岡城 があったとされています。京都市の遺跡台帳には宗像神社近辺とありますが、宗忠 神社の誤りと思われます。全体的に、社地および民家として改変されているため、 遺構の確認は容易ではありません。 宗忠神社と吉田山頂方面との間を東西に走る道路は、堀切跡を利用したものの ように見えます。この堀切は、山本正男「京都市内およびその近辺の中世城郭」 (『京都大学人文科学研究所調査報告 第53号』)によれば明治期の神社境内図 に「はっきり認められる」とのことです。これが堀跡で間違いなければ、最も良好に 残っている遺構といえます。また「中世城郭」によれば、社殿西方に曲輪跡がみら れるとあり、たしかに神社西側裏手の藪の中に不完全ながら削平地が見受けられ ます。ただ、これは遺構なのか神社の造営に伴うものかは、にわかには判断でき ません。 史料上城砦があったことを裏付けることはできず、中世城郭に好まれる丘陵先端 に遺構と思しき地形が見られるという点から、城砦が存在した可能性がかなり高い という以上のことはいえないように思います。 |
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近衛吉田東の角から神楽岡城址を望む。 | |
宗忠神社。 | |
宗忠神社と吉田山山頂方面の間の道。堀切跡か。 | |
神社門前から東方を望む。道路は前述の堀跡か。 | |
社殿西方裏手の藪。一応削平地が認められます。 |