梶原景時館(かじわらかげとき) | |
別称 : 一宮館、梶原景時城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 梶原景時 | |
遺構 : 土塁、堀 | |
交通 : JR相模線寒川駅徒歩15分 | |
<沿革> 梶原氏は坂東八平氏の1つ鎌倉氏の一族で、鎌倉景通の子景久にはじまる。景時は 景久の曾孫にあたり、治承四年(1180)の石橋山の戦いで源頼朝を見逃した人物として 知られる。後に頼朝のもとで侍所所司に任じられ、源義経や畠山重忠を讒言するなど、 影響力をもった。 正治元年(1199)、頼朝が没して頼家が将軍に就くと、「十三人の合議制」が布かれ、 景時もその一員となった。頼家にも「一の郎党」と重用されていた景時は、結城朝光を 叛心ありとして讒言した。これに対し、日ごろ景時をよく思っていなかった御家人たちの 怒りが爆発し、御家人66人の連名による連判状が作成された。同年十一月十二日、 景時は一言も弁明することなく、失脚して一宮の館へ一族とともに退いた。 翌二年(1200)一月、景時は一族を伴って上洛せんと図ったが、駿河国で捕捉され、 悉く誅殺された。景時の弟朝景が梶原氏の家督を継いだが、建暦三年(1213)の和田 合戦で討ち死にした。一宮の館が景時上洛時点で廃されたのか否かは詳らかでない。 <手記> 梶原景時館はJR寒川駅の南東にあり、西に田村の渡し、東に現在の中原街道があり ます。また、館の眼前を東西に大山道が走り、田村の渡しの先で南北に走る田村道と 交差します。さらに北には、寒川神社の参道とそれに続く目久尻川沿いの街道があり、 交通の要衝にあったことが分かります。 館南東隅と考えられているあたりに天神社があり、その入り口(上の地図の緑点)に 石碑と説明板が設置されています。天神社の前から細い水路が東方へと続いていて、 内堀伝承地とされています。上の地図では直線で示しましたが、実際にはかなり複雑に 折れ曲がっています。 また、天神社の北東、宅地裏の畑地内には土塁が残っています。この土塁は西側で 折れてさらに北方へ向かっていたと伝えられ、道路に沿った外堀跡とされる水路につな がっていたとされています。 これらの断片的な痕跡を総合すると、一宮館はかなり規模の大きい城館であったこと が推測されます。史料上は2か月足らずしか登場しない一宮館ですが、これだけの規模 の館が景時の失脚前後に急ごしらえで造られたとは、にわかには信じられません。おそ らく、失脚以前に少なくとも前身となる館はすでにあったものと考えられます。 |
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天神社前の石碑。 中央石橋下に内堀跡とされる水路があります。 |
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残存土塁。 | |
内堀跡とされる水路の屈曲部。 |