角館城(かくのだて)
 別称  : 小松山城
 分類  : 山城
 築城者: 不詳
 遺構  : 曲輪跡、土塁
 交通  : JR田沢湖線角館駅徒歩30分


       <沿革>
           築城者や年代についてははっきりしたことは分かっていない。14世紀に菅氏が築いたともいわれる。
          史料に現れるのは、戸沢家盛が応永三十一年(1424)に門屋城から居城を移してからである。戸沢氏
          が移って以降に、角館と呼ばれるようになったと推測されている。戸沢氏は、その後、仙北地方を中心
          とする戦国大名として成長した。
           15代秀盛の死後6歳で家督を継いだ道盛は、秀盛の弟の忠盛に角館城を追われた。秀盛は忠盛に
          家督を譲ることを約していたが、晩年に実子道盛が生まれたために、約束を反故にされたことが原因と
          いわれる。しかし、忠盛は重臣の支持を得られず、道盛は城主に返り咲くことができた。
           道盛の子盛安は鬼九郎の異名をとった勇将で、戸沢氏の版図を更に拡大し、織田信長や豊臣秀吉
          とも誼を通じて領国経営を安定させた。盛安は、天正十八年(1890)に秀吉の小田原攻めに参陣した
          が、その地で25歳の若さで客死した。
           盛安の子の政盛は関ヶ原の戦いで東軍につき、戦後常陸松岡へ転封となった。慶長七年(1602)、
          佐竹義宣が羽後に入国し、角館には一族の蘆名盛重が入った。盛重は義勝と改名し、角館の整備に
          乗り出した。それまでの城下(おそらく城の東麓にあったと思われる)を南側へ移し、居館も南麓に築き
          直した。
           山上の城は、このころから古城山と呼ばれるようになり、事実上廃城になったものと思われる。


       <手記>
           枝垂桜で有名な小京都角館の町並みを、北へ突き当たったところに古城山があります。武家屋敷の
          観光地化に取り残されてしまっていますが、城跡からの城下の眺望はまた格別です。
           登城路は、車を通すための砂利の迂回路か、尾根伝いの山道の2通りあります。当初山道を行こうと
          したのですが、入って間もなくマムシの赤ん坊みたのに出くわしたので断念し、車道を登りました。結果
          としてよかったと思うのは、下るときに山道を辿って降りたところ、かなりの急坂の連続だったことです。
          本当に当時の道かは不明ですが、この山道はわざわざ曲輪間の急なところを選んで階段を設置して通
          してあります。
           城は、本丸を頂点に階段状に曲輪を配置しており、各曲輪の間は急な土塁または切岸となっています。
          本丸には、戸沢氏の供養塔のほか、姥桜や杉の巨木があります。


           
 武家屋敷通りから古城山を望む。
本丸の様子。 
 本丸下段(二の丸か)からの眺望。
 本丸下段から本丸を望む。 


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