上泉城(かみいずみ) | |
別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 上泉氏 | |
遺構 : 土塁、堀跡 | |
交通 : 上毛電鉄上泉駅徒歩10分 | |
<沿革> 上泉氏の居城である。上泉氏は大胡氏の一族とされるが、詳しい系譜は不明である。剣聖と して知られる上泉伊勢守信綱はこの上泉城で生まれ、城主であったといわれるが、確証はない。 『言継卿記』などには、信綱は主に「大胡武蔵守」として登場し、一般的な伝承では、信綱は箕輪 長野氏に仕え、長野氏の滅亡後は諸国流浪の旅に出たとされる。永禄元年(1558)の長野氏の 『着到帳』には、「下芝砦定居」として上泉伊勢守時則の名がある。これを信綱と同一人物とみる 向きもあるが、確証はない。もし信綱が下芝砦主であったとすれば、この時点ですでに上泉城を 離れていたものと推測される。 永禄四年(1560)に長尾景虎によって作成された『関東幕注文』に、白井衆として上泉大炊助 の名がある。ただし、この大炊助が上泉城主であったかは不明である。大炊助が白井衆に名を 連ねている一方、大胡氏は厩橋衆に属している。ちなみに、長野氏の滅亡は同九年(1566)と とされるため、同四年時点で大炊助が上泉城主とするなら、信綱が上泉城を去っていたことの 傍証となりうるとも思われる。 信綱の家系は、孫とされる泰綱が上杉家に仕え、子孫は米沢藩士となった。しかし、上泉城と 上泉城上泉氏のその後については不明である。 <手記> 上泉城は、桃ノ木川と藤沢川に挟まれた河岸の城です。剣聖上泉信綱が生まれ育った「かも しれない」城ということで、本丸南の付曲輪跡の公民館前には、立派な上泉信綱像が建てられて います。公民館の北側に一段高い本丸があります。本丸には江戸時代に建てられた郷倉があり、 周囲を土塁と堀跡が囲っています。 本丸西の西林寺も続きの曲輪で、本堂裏に堀跡が残っていたようですが、現在では失われて いるようです。西林寺には信綱ないし子の秀胤の墓があるとされています。 西林寺のさらに北西にある玉泉寺は、上泉城の出丸であったとされています。玉泉寺本堂裏手 には、土塁が残っています。これが、上泉城で最も良好な遺構であると思います。玉泉寺背後の 一段低い道路は、一帯に数多くみられる女堀という用水堀兼の堀跡の一部だそうです。 |
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本丸を望む。 | |
本丸南面の土塁。 | |
本丸東側の曲輪堀跡の道路。 | |
出丸とされる玉泉寺裏手の土塁。 | |
玉泉寺背後の女堀跡とされる道路。 |