上久世城(かみくぜ)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 寒川氏か
 遺構  : なし
 交通  : JR東海道本線向日町駅徒歩15分


       <沿革>
           応永年間(1394〜1427)ごろの上久世荘公文職として、寒川元光の名がみられる。
          上久世城はこの寒川氏の居城として築かれたものと推測されている。上久世荘では、
          それ以前の14世紀前半ごろから真板氏が公文職を務めていた。元光は讃岐寒川氏
          の一族とされ、讃岐守護の細川京兆家に従って山城国に入り、上久世荘の公文職を
          真板氏から勝ち取ったものとみられている。ところが、永享年間(1429〜1441)には、
          公文職は真板慶貞・同信貞(父子か)の手に移っている。そして明応七年(1498)の
          文書には、公文寒川家光の名が現れる。真板氏と寒川氏の間で公文職の度重なる
          移動があったのか、それとも両氏がともに公文職を拝命していたのか、詳細は不明で
          ある。
           上久世荘の住人として、ほかにも和田氏・利倉氏・恋川氏・上久世氏といった名が
          確認できる。このうち恋川氏については、文亀永正年間(1501〜20)ごろに恋川清景
          が利倉安弘に討たれたとされる。また利倉氏は、後に革島氏から革島政宣を養子に
          迎えたとされる。
           上久世城がこれら諸氏のうち誰の城館であったかは、実際のところ詳らかでない。
          ちなみに、天正四年(1576)には古田重然(織部)が上久世の代官となっている。


       <手記>
           上久世城は久世西小学校とそれに北接する道路の下となり、遺構等は消滅して
          います。小学校東側の水路が、上久世城の東辺南半の城域境と一致していますが、
          城の堀を利用したものかどうかは分かりません。

           


上久世城址南東端附近のようす(久世西小学校校門)。


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