鴎島砲台(かもめじま) | |
別称 : 鴎島台場、テカエシ台場、キネツカ台場 | |
分類 : 砲台 | |
築城者: 松前藩 | |
遺構 : 曲輪跡、土塁 | |
交通 : JR函館駅よりバス 「中歌町」バス停下車徒歩15分 |
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<沿革> 嘉永五年(1852)、松前藩によって沿岸警備のために建造された。砲台は南北に細長い 島の両端に設けられ、北のものをテカエシ台場、南のものをキネツカ台場と呼んだ。 明治元年(1868)の箱館戦争で、松前城を落とした旧幕府軍は、北上して江差攻略へと 歩を進めた。海路からも、箱館を出航した開陽丸が援護に向かい、十一月十四日に陸上 部隊に先んじて江差へ到着した。江差の守備兵は、すでにほとんどが藩主のいる館城へ 撤退していたため、開陽丸の乗船部隊は無血で江差を占領した。 しかし、翌十五日の嵐で開陽丸は座礁し、沈没した。開陽丸の喪失は、旧幕府軍が新 政府軍に対して優越していた制海権を失うことにつながった。 翌明治二年(1869)四月九日、新政府軍艦隊5隻が江差に迫り、砲撃を開始した。これ に対し、旧幕府軍の江差奉行松岡四郎次郎はキネツカ台場から大砲で応戦したが、砲弾 は敵艦まで届かなかった。松岡らは抵抗を諦め、松前へ退却した。 江差を占領した新政府軍は、陸路を3ルートから箱館目指して攻め上ることとなった。 箱館戦争終結後、砲台は使用されることなく廃止となった。 <手記> 「カモメ島」の表記は、正確には上の地図にあるとおり「驅」の旁に「鳥」と書きます。江差 沖に突き出た細長い岩の島で、この島があったからこそ、江差は港町として発展することが できました。訪れてみれば分かりますが、渡島半島西岸は日本海の激しい風と波に晒され るにもかかわらず、船を置いておけるような入り江などがありません。鴎島の裏につないで おけば、なんとか波風をしのげるということで、江差はこの地域で最も重要な港となったの です。先の開陽丸が座礁したのも、島陰に退避させておくのを怠ったのが原因といわれて います。実際に島に上がってみると、陸地側が屹立した崖になっているのに対し、外海側 は波と風に削られ、なだらかな岩の裾野となっているのが分かるでしょう。 さて、鴎島砲台は南北どちらとも、基本的には大砲を据えるだけの扁平な削平地となって います。南のキネツカ台場の方は、標柱が立っている平場の1段下にも削平地があり、2段 構成であった可能性があります。 北のテカエシ台場から少し上った厳島神社の周辺には、土塁が散見されます。神社と、 島の中心付近にある灯台は江戸時代に建造されたものですが、古絵図によると両者とも も小規模な土塁で囲繞されており、この2つについては砲台とは無関係の風除けのものと 推測されます。ただ、テカエシ台場と神社の間に位置する崖端近くの細長い土塁と、神社 に南接する「江差追分の功労者」像のある区画は、台場に付随する遺構であると拝察され ます。前者は、わりと長大ではあるものの、その内側には何も建物はなく異質です。途中 には2か所ほど虎口のような切れ目があります。個人的推測としては、これは台場までの 大砲の運搬や物資・兵員の移動における風除けか、あるいは海上攻撃からの防衛の目的 でつくられたものではないかと考えています。また後者は、内部が3段に削平されており、 両台場の本部的な建物があったのではないかな、と直感的に思いました。 鴎島の付け根には咸臨丸が復元されています。島は江差でも1・2を争う観光名所ですが、 当時最強の軍艦を座礁させ、建物の周りには必ず土塁が設けられるほど風が強いですの で、訪ねる際は十分にお気を付けください。 |
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テカエシ砲台のようす。 | |
テカエシ砲台と厳島神社の間の土塁。 | |
厳島神社背後の土塁。 | |
神社正面の土塁。 | |
神社南接区画のようす。 | |
同上。 | |
キネツカ台場のある島の南端方面を望む。 | |
キネツカ砲台跡。 | |
キネツカ砲台跡一段下の削平地。 | |
鴎島灯台。 |