松前城(まつまえ)
 別称  : 福山城、福山館
 分類  : 平山城
 築城者: 松前慶広
 遺構  : 門、石垣、堀
 交通  : JR函館駅よりバス
       「松前」バス停下車徒歩5分


       <沿革>
           慶長五年(1600)、蝦夷の大名松前慶広によって築城が開始された。それまでの居城は
          松前城の北の大館であった。新規築城にあたっては、家臣から箱館(函館)を推す意見も
          あったが、容れられなかった。移転費用の問題や、松前がすでに長らく蝦夷における和人
          の拠点として定着していたこと、そして十三湊や鰺ヶ沢などの本州の港にもっとも近かった
          ことが理由として考えられる。同十一年(1606)に完成した城は、福山館と名付けられた。
           蝦夷地は、当時は米が獲れなかったため無石の土地であり、松前氏は当初は藩主では
          なく蝦夷島主とされていた。福山館が陣屋でも城でもなく「館」と呼ばれ続けていたのも、
          こうした蝦夷地の特殊性が反映されたものと推測される。
           築城当時の縄張りについては定かでないが、享保二年(1717)に編纂された『松前蝦夷
          記』には、櫓1ヵ所に門3ヶ所、堀は南を除く三方に巡らされているものの幅はいずれも十間
          以内とある。これを見る限り、福山館はほぼ単郭の陣屋造りの簡素な館城であったことが
          うかがえる。
           享保四年(1719)、松前家は1万石格の大名として認められ、正式に松前藩が成立した。
          しかし、この後も福山館は「館」のままで徹されたものとみられる。
           18世紀末葉ごろからロシアが南下し、アイヌや松前藩と接触を持つようになった。幕府は、
          国防や通交の必要性から、寛政十一年(1799)に箱館を含む蝦夷地の大半を松前藩から
          上知した。文化四年(1807)には、藩主松前章広が陸奥国伊達郡梁川へ9千石で転封と
          された。米の獲れない1万石格から米の獲れる9千石の土地への転封は、一見ほぼ対等
          のように思われるが、松前藩の最大の収入源はアイヌ交易や北前船交易にあったため、
          実際には減封に近い処置といえる。これは、表向きは前藩主道広が遊興で散財したため
          とされる。ただし、道広はすでに隠居の身であり、公的な理由とするのはやや難がある。
          このほかにも、密貿易が発覚したため、あるいはロシア人の南進を幕府に知らせなかった
          ためとする説もあるが、確証はない。ただ、松前藩が交易ないし対露外交でミスを犯したと
          判断されたとするのが、妥当なところと考えられる。
           文政四年(1821)、章広はようやく旧領復帰がかなった。この間、松前城には幕府から
          松前奉行が派遣されていた。章広が蝦夷地へ復帰した理由は定かでないが、蝦夷地の
          支配と防備には松前家を充てた方が良いという判断がなされたものと推測される。『日本
          城郭大系』では、ナポレオン戦争によってロシアが拡大政策を採れなくなったことが要因
          であるとしているが、同戦争は6年も前に終結している。
           嘉永二年(1849)、新藩主となった松前崇広は、将軍へ就任の挨拶のために登城した
          先で、北方警備のための新城築城を命じられた。同時に、松前家は城主格へ昇格した。
          崇広は、長沼流兵学者市川一学を招聘して築城計画を練った。このときも、一学は箱館
          への移転(正確には函館の北の桔梗)を勧めたものの、福山館の拡張がリーズナブルと
          する藩士の猛反対に遭い、幕府に裁断を仰いだ結果、後者に落ち着いた。工事は翌年に
          始められ、安政元年(1854)に完成した。普請にあたっては当然ながら費用の調達が最大
          の関門であったが、北前船交易を通じて蝦夷地に支店をもつ商人たちから募った献金が、
          多大な役割を果たしていたことが当時の書簡などから明らかとなっている。
           こうして落成した城は、そのまま福山城と呼ばれることになった。ただし、備後国に同じ
          福山城が古くから存在していたため、一般には松前城と通称されるようになった。公的な
          呼称は、最後まで福山城であったとされる。福山城は、天守をもつ日本式城郭としては、
          最後のものとなった(天守を持たない日本式縄張りの完成をみた城としては、前橋城
          最後)。
           同年に日米和親条約が結ばれると、翌安政二年(1855)には開港された箱館を中心と
          した地域が再び幕府直轄として上知され、代わりに前出の梁川など3万石を与えらえた。
           明治元年(1868)九月、新政府側に与した松前藩は、厚沢部川上流に館城の築城を
          開始した。十月二十六日には、榎本武揚率いる旧幕府軍が箱館を制圧した。翌日には
          土方歳三の部隊が松前を目指して進軍を開始し、藩主松前徳広らは突貫で完成させた
          館城へと移った。十一月五日、土方勢700名余が松前城を攻撃し、数時間の戦闘の後に
          落城した。守備兵が不足していたとはいえ、築城の経緯から鑑みて呆気ない落城の背景
          には、福山城が海上からの砲撃には配慮しているものの、地上戦には弱い縄張りをして
          いたことがあるといわれる。
           翌明治二年(1869)四月十七日、江差を占領した新政府軍が陸海から松前を攻撃した。
          福山城には旧幕府軍の伊庭八郎らが拠っていたが、なす術はなく撤退を余儀なくされた。
          戦後、松前藩は館藩と改称した。2度の戦闘で荒廃した福山城から館城へ正式に移り
          住んだものとも思われるが、詳細は不明である。同四年(1871)の廃藩置県により福山城
          は収公され、同八年(1875)に解体された。


       <手記>
           松前城は、大松前川と小松前川に挟まれた山裾の先端付近に位置しています。眼前
          は海で、城と海の間には通り2本分の土地しかありません。中世ならいざ知らず、近世の
          藩府がこのような狭隘な土地に置かれたというのは、蝦夷経営の特殊性と、残念ながら
          松前氏の後進性を示しているように思います。それでも、江戸時代後期には人口が1万に
          達していたというから驚きです。
           松前城といえば、青い銅板葺きの本丸御門と三層天守が横並びに映った構図が有名
          です。本丸御門は、城内で唯一同じ場所で残っている建造遺物で、天守は鉄筋コンクリ
          −トの復元です。おなじみのアングルは、本丸御門の外から撮ったもので、本丸内部は
          広い草っぱらとなっています。
           本丸南東の搦手門や二の丸を中心に、近年発掘調査と復元事業が行われ、搦手二の
          門や天神坂門、外堀と石垣などが再建されています。とくに、外堀の外側に帯曲輪状に
          延びる三の丸には、近代の築城らしく砲台が7つ設けられており、そのうち3つが復元され
          ているのは、松前城の特徴を示すものとして興味深かったです。
           近年では、松前城は桜の名所として知られており、私が訪れたときは散りはじめでした
          が、まだ桜まつり期間中ということで多くの観光客がいました。しかもそのなかの多くが、
          アジア系の外国人と思われ、とても驚きました。日本人にさえ、松前はそこまで知られた
          存在とは思えないうえに、函館ないし木古内駅からバスで2時間前後かけて来るしか交通
          手段がありません。そのようなところにこれだけの外国人がやってくるということは、相当
          海外に向けて観光アピールを官民一体で行っているということなのかな、と感心しました。
           さて、松前城は、箱館戦争時に土方歳三らの陸兵隊に攻め落とされました。上述のよう
          に、近世城郭のはしくれである松前城がわずか数時間で落ちてしまったのは、縄張り上の
          不備があったからとされています。たしかに、私も縄張り図を見て、また実際に訪れてみて、
          その奇妙さを感じました。もっとも気になるのは、大手門と搦手門がほとんど隣り合わせに
          並立していることです。それどころか、大手門を抜けて二の丸に入るとその先に搦手門が
          あり、それをくぐると本丸に至るという、なんとも不可思議な構造となっています。さらに、
          三の丸を占拠されてしまうと、大手門と搦手門の両方が同時に攻撃に晒されてしまうこと
          になります。これではたしかに、いわれているように陸上からの攻撃にはすこぶる脆弱で
          あるとみられても仕方ありません。その原因は、おそらく著しく狭隘な土地に海防を意識
          しつつの日本式近世城郭を建てるよう無茶振りされたことにあると思われ、あるいは市川
          サンも半ばヤケになって設計してしまったのではないかとすら感じられます。

           
 本丸御門と復元天守。おなじみのアングル。
天守北東裏手より、本丸堀越しに。 
 本丸御殿跡のようす。
外堀と搦手二の門(いずれも復元)。 
 天神坂と天神坂門を望む。
三の丸六番台場。 
 二の丸二重太鼓櫓跡。
本丸北辺の外堀跡。 
 同じく寺町門跡。
沖の口門跡付近から海側を望む。 


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