蒲原城(かんばら) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 今川氏か | |
遺構 : 曲輪、堀、土塁、 | |
交通 : JR東海道本線新蒲原駅徒歩20分 | |
<沿革> 南北朝時代に今川範国が北朝の足利尊氏から駿河守護に任じられて以降、今川氏に よって築かれたと考えられている。それまで、蒲原荘には藤原南家流の蒲原氏があり、 南朝に属して範国に滅ぼされたとされ、蒲原城も蒲原氏がすでに築いていたとする説も あるが、確証はない。 今川氏時代の蒲原城には特定の城主は置かれなかったとみられており、永享十三年 (1441)に牟禮但馬守範里が在城したとされる。天文十三年(1544)には、第二次河東 一乱に臨んで飯尾豊前守乗連らが、永禄四年(1561)には佐竹又七郎・同雅楽助らが 城将として入った記録がある。 永禄十一年(1568)に武田信玄が今川氏との同盟を破棄して駿河へ侵攻すると、北条 氏政は今川氏救援のため、北条幻庵の次男綱重(氏信)らを派遣し、蒲原城に入った。 翌十二年(1569)にかけて城は大きく改修されたとされる。しかし、同年十二月に武田氏 が大軍を率いて攻め寄せると、激戦を繰り広げたものの、武田勝頼・信豊らの猛攻の前 に落城し、綱重・長順兄弟をはじめとする守将はことごとく討ち死にした。 信玄は自ら蒲原城に入り、対北条氏の拠点としてさらに改修を加えた。また、在地領主 らを糾合して「蒲原衆」を組織した。その後、天正十年(1582)の武田攻めで徳川家康に 攻め落とされるまで武田氏の支配が続いたが、城主などについては詳らかでない。 天正十八年(1590)の小田原の役に際し、徳川勢が当城に着陣した記録がある。遅く ともこの年に廃城になったと推測されているが、早ければ同十年に武田氏が滅んだ際、 城砦としての機能は失われていたとも考えられる。 <手記> JR東海道本線新蒲原駅のすぐ北西側にある山が蒲原城跡です。城山の一部を削って 東名高速道路が走り、眼前には海が迫っていることから、一目で交通の要衝であること が分かります。城跡へは、北東側を登る道路沿いに駐車場が完備されており、そこから 割りとフラットに歩いていくことができます。 道を進んでまもなく、大堀切と書かれた看板があります。その脇には、たしかに広大な 凹地形があるのですが、藪に覆われていて全容はよくわかりません。地形図などを見る 限りでは、もともとの谷戸地形をさらに掘り込んで、峰の付け根を土橋状に切れ込ませた もののようです。 その先は腰曲輪や横堀が現れ、主城域に入ります。最初に出会う大きな曲輪は本郭 から堀切を隔てた北側の善福寺曲輪で、事実上の副郭にあたると考えられます。堀底 を通じて曲輪の下をぐるっと1周することができ、とくに堀切の西端から落ちこむ竪堀は、 見どころの1つといえるでしょう。 本郭は低い段差で2段になっていて、上段には小さな神社が鎮座しています。本郭の 南西に二ノ郭があるそうですが、そちら方面はまたド藪に閉ざされていて、踏査は困難 でした。そのさらに西側の裾野には面積の広い三ノ郭が広がっていて、現在は柑橘畑 などの耕作地となっているようです。一応別ルートで作業道が通じているようですが、 今回は時間の都合もあり、寄りませんでした。 城郭史有数の激戦地となった蒲原城址ですが、今ではそのようなようすは伺えず、 富士山や駿河湾の向こうの伊豆半島を望む景色のよい丘となっています。逆に、当時 の籠城方としては、そんな眺めを楽しむ余裕がどれほどあったのかと思うと、時代という ものを強く感じざるを得ません。 |
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本郭のようす。 | |
本郭の石碑および標識。 | |
本郭の上段と下段の段差。 | |
本郭から富士山方面を望む。 手前は善福寺曲輪。 |
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同じく伊豆半島方面を望む。 | |
善福寺曲輪のようす。 | |
同上。 | |
善福寺曲輪背後の堀切。 | |
堀切から続く竪堀。 | |
善福寺曲輪下の横堀。 石塁が城の遺構かは不明。 |
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善福寺曲輪下の腰曲輪。 | |
その下の横堀。 | |
大空堀。 |