春日部氏館(かすかべし)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 春日部氏
 遺構  : 土塁
 交通  : 東武野田線八木崎駅徒歩5分


       <沿革>
           在地領主春日部氏の居館跡とされる。春日部氏は紀氏の流れをくむとされ、紀実直の
          一子実高に始まるとされる。元久二年(1205)の畠山重忠の乱で、重忠討伐に向かった
          御家人のリストに春日部氏の名が見られ、実高のことと考えられている。他方で、『吾妻
          鏡』には文治三年(1187)に壇ノ浦の戦いについての証言をするために幕府へ出頭した
          春日部兵衛尉の名が登場する。兵衛尉と実高が同一人物か否かについては、詳らかで
          ない。
           また、紀姓春日部氏以前に、春日山田皇女の御名代部に端を発する春日部氏がいた
          のではないかとする説もある。春日山田皇女は安閑天皇の皇后で、6世紀前半ごろの
          人物である。『日本書紀』には、誤って皇女の寝所に入ってしまった上総国の伊甚国造
          が、罰として伊甚屯倉(現在の千葉県夷隅郡周辺)を献上したことが記されている。この
          春日山田皇女の屯倉管理にかかわる官人として「春日部」を名乗る一族が古代に存在
          したことは、ほぼ確実と考えられている。ただし、この春日部氏が埼玉県の春日部(当時
          は下総国)と関連があるのかは定かでない。
           実高の孫実景は、宝治元年(1247)の宝治合戦で三浦氏に味方し、鎌倉の法華堂で
          3人の息子とともに自害した。これにより、春日部氏は一時没落したが、のちに実景の孫
          とされる春日部重行が家督を継承した。ただし、重行の生年は永仁二年(1297)とされ、
          宝治元年に死亡した実景の孫とするのは、不可能ではないが無理があると思われる。
           重行は、鎌倉幕府に対する新田義貞の挙兵に従い、延元元年(1336)に後醍醐天皇
          から春日部郷などの地頭に任じられた。南北朝の分裂に際しては、重行は南朝に与し、
          同年に足利尊氏と京都で戦って敗れ、自害した。『太平記』には春日部治部少輔時賢
          の名で登場するが、一般に重行と時賢は同一人物とみられている。
           春日部氏の家督は重行の子家縄が継いだが、以降の同氏の動向は詳らかでない。
          戦国時代には岩付太田氏ついで後北条氏に仕えたともいわれるが、春日部郷や館を
          維持できていたのかは不明である。この場合、天正十八年(1590)の小田原の役後に
          所領を失ったとされる。


       <手記>
           春日部重行が勧請したと伝わる八幡神社境内が館跡とされています。本殿背後に
          コの字型の土塁がみられ、奥の院をはじめとするいくつかの社が立ち並んでいます。
          その背後は緩やかな斜面となっていて、館が旧利根川沿いの河岸上にあったことを
          うかがわせます。
           かつての利根川は、大落古利根川から八幡神社の北を流れる古隅田川を逆進し、
          現在の元荒川につながるルートをとっていたと考えられています。そのため、春日部は
          武蔵国と下総国の境を成していた利根川の東岸に位置し、中世までは下総国に属し
          ていました。
           八幡神社本殿の東には江戸時代に作られた富士講の築山があります。これは埼玉
          県指定天然記念物の浜川戸砂丘を利用したもので、隣接する稲荷神社とともに八幡
          神社境内よりも高い地形になっています。春日部氏館が戦国期まで存続していたと
          すると、これらの丘を城域に取り込まないことはないように思われるのですが、歩いて
          みた感触では、造作が入っているようには見えませんでした。

           
 八幡神社本殿。
本殿背後の土塁状地形。 
 
 土塁背後の斜面。


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