葛浜氏館(かつらはまし)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 葛浜行平
 遺構  : 不詳
 交通  : 東武伊勢崎線南羽生駅徒歩10分


       <沿革>
           葛浜氏は藤原秀郷流大河戸氏の分流で、小山政光や下河辺行義の弟にあたる
          大河戸重行(行方)の四男四郎行平が葛浜郷に入植したことにはじまるとされる。
          『吾妻鏡』によれば、重行は平家に属した廉で治承四年(1180)に伊豆の蛭ヶ小島
          へ流罪となり、4人の息子も連座した。その後、重行は許されたものの召喚の途次
          で病死し、行平ら4人も源頼朝に謁見して赦免されたとされる。建久元年(1190)に
          頼朝が上洛したときにも、4兄弟が随行している。
           行平以後の葛浜氏については不明である。『新編武蔵国風土記稿』によれば、
          かつて神戸には萬蔵院という寺院があり、神戸三郎の妻が亡夫の菩提を弔うため
          に建立したと伝わる。この神戸三郎は、行平と同一人物とされる。萬蔵院は近隣の
          千眼寺とともに廃寺となり、後世に両者を合わせて新たに千眼寺として復興された。


       <手記>
           萬蔵院は神戸三郎こと葛浜四郎行平の館跡に建てられたと推測され、その故地
          は、「儀一の城館旅」さまによれば南羽生駅南東の個人宅となっているあたりだと
          いうことです。
           たしかに、現地には水田と屋敷林に囲まれた広大な旧家が3軒ほど集まっていて、
          周囲に対して微高地となっています。館跡とみられるエリアの南西隅には、小さな
          諏訪神社が祀られています。
           はっきりとした遺構は、外周からはわかりませんでしたが、雰囲気としては平安末
          の開発領主の館跡という雰囲気は感ぜられました。他方で、南羽生駅周辺は新興
          住宅地として開発されていて、近代化の波が館跡まで押し寄せてくるのではないか
          という一抹の心配も覚えました。
           ちなみに「葛浜」の読みについては、「かつらはま」のほかに「くずはま」としている
          ものもあり、裏付けは取れませんでした。

           
 比定地南西隅付近の諏訪神社。
比定地を水田越しに眺める。 


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