河津城(かわづ) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 蔭山広氏か | |
遺構 : 曲輪、堀 | |
交通 : 伊豆急行線河津駅徒歩20分 | |
<沿革> 鎌倉公方足利持氏の遺児とされる、蔭山勘解由広氏によって築かれたと伝わる。広氏 は、父が永享の乱により永享十一年(1439)に自害したとき3歳であったとされ、乳母に 連れられて伊豆国河津の領主蔭山氏を頼ったとされる。蔭山氏は紀姓ともいわれるが、 詳しい出自は不明である。また、『寛政重修諸家譜』には「外縁によりて蔭山氏が許に 成長し」とあり、事実であれば、蔭山氏が広氏の母方の縁者であったことがうかがえる。 広氏は後に蔭山氏の婿となり、名跡を継いだ。 延徳三年(1491)、河津城は伊勢宗瑞(北条早雲)に攻め落とされたと伝わる。ただし、 早雲の伊豆討ち入りは明応二年(1493)のことであり、それに先立って河津まで軍勢を 進められたとは考えにくい。一方で、早雲は城を火攻めで落としたと伝えられ、城跡から は今でも多くの焼米が見つかり、かつては焼米を牛馬に食べさせると病気をしないという 言い伝えがあったとされる。したがって、早雲の伊豆平定に際して、河津城の攻防戦が あったことは事実と思われるが、その時期については明応二年以降と考えるのが自然と いえる。 蔭山氏はその後も北条家臣として続いていることから、河津城は落ちたものの、広氏は 降伏して許されたものと推測される。広氏から6代目にあたる氏広は、天正十八年(1590) の小田原の役で後北条氏が滅ぶと蟄居した。このときまでに、河津城は廃城となったもの と思われる。 ちなみに、氏広の妻には前夫・正木頼忠との間に連れ子の娘・万がおり、後に徳川家康 の側室となって頼宣と頼房を産んだ。氏広の実子で、万の義弟にあたる貞広の系統は、 足利一門に連なる旗本・蔭山家として存続した。 <手記> 河津駅のすぐ北側にある、円錐状の目立つ山が河津城跡です。駅北口東側の高架脇 付近から登山道が整備されていて、入口には「河津城址公園」の標柱もあるので、迷う ことはないでしょう。平時の居館は、東麓の姫宮神社境内一帯に置かれていたとされて います。 地図で分かる通り、正面から見ると円錐形ですが、山頂は南北にやや長さがあります。 とはいえやはり面積はあまりとれず、山頂の本郭と南側に1段下がった副郭、そして本郭 背後の腰曲輪が主な曲輪です。腰曲輪の北側には2条の堀切があり、その間には給水 タンクのような設備が置かれています。その東側の尾根にも比較的規模の大きな堀切が あり、また南東尾根にも堀ないし腰曲輪の跡が認められます。 全体的に規模は大きくないものの、堀切については早雲時代の造作とは思えません。 蔭山氏が後北条氏家臣となってからの改修でしょう。蔭山氏の詰城の域を出ないので あれば、規模もこれで十分と思われます。小田原の役まで存続したものの防衛拠点とは みなされず、そのまま廃城となったものと拝察されます。 |
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河津川越しに河津城跡(右手)を望む。 河津桜の時期にはさぞ綺麗なことでしょう。 |
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副郭と奥に本郭。 | |
本郭のようす。 | |
本郭から副郭を見下ろす。 | |
副郭の模擬冠木門。 | |
副郭からの眺望。 | |
本郭背後の腰曲輪。 | |
腰曲輪下の堀切。 | |
その奥のもう1本の堀切。 | |
北東尾根の堀切。 | |
南東尾根の堀切ないし腰曲輪。 | |
登山途中の展望台からの眺望。 奥に見えるは伊豆大島。 |