上杉憲幸館(うえすぎのりゆき) | |
別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 上杉憲幸か | |
遺構 : なし | |
交通 : 京急大師線産業道路駅徒歩5分 | |
<沿革> 『新編武蔵国風土記稿』橘樹郡稲荷新田村殿町について、「往古ここに上杉憲幸が 館ありし故に名とすと 果して然るや否を詳にせず」とある。『日本城郭大系』によれば、 『川崎市史』が拠る記録書の1つに、天文七年(1538)に上杉憲幸が「北鎌田」の城を 出て、後北条氏を迎え撃つために「大師河原」に城を構え、稲荷新田殿町に「御座」を 置いたが、その後主君上杉憲政からの撤退命令を受けて、土地を明け渡したとあると される。憲幸は上総へ退去したものの、後に本人の希望により北条氏に属し、大師 河原に近い藤崎の地に居館を設けたとされる。憲幸は里見氏との戦いで討ち死にし、 跡を子の氏幸が継いだが、天正十八年(1590)に北条氏が滅ぶと、所領があった星川 へ移り住んだとされる。 憲幸・氏幸父子の名は、当時の史料や上杉氏の系図にはみられないが、山内上杉 憲政の近親者と考えられている。『小田原衆所領役帳』によれば「六郷殿」が星川に 所領をもっており、「北鎌田」も六郷に含まれることから、この六郷殿が憲幸に当たると みられている。したがって、憲幸・氏幸父子が実在の人物であり、その館が稲荷新田 殿町にあった可能性は高いといえる。 <手記> 憲幸の館があったとされる殿町は、現在の京急大師線産業道路駅の北東に位置 しています。多摩川が町の北を流れていますが、当時は南側を流れていたとされて います。殿町の東には埋立地が広がっているため、かつてはほぼ河口だったものと 推測されます。 『市史』の記述が正しければ、憲幸はここに陣城を構えて南から北進する北条氏と 対峙し、後に館を営んだことになります。『役帳』に「六郷殿」とあることから、『大系』 で指摘されている通り、憲幸の居所は「北鎌田」にあり、殿町の館城はあくまで支砦 であったものと考えられます。 今日では殿町の地名を残すのみです。 |
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殿町1丁目交差点。 |