金田一城(きんだいち)
 別称  : 四戸城
 分類  : 平山城
 築城者: 四戸氏か
 遺構  : 曲輪、堀
 交通  : いわて銀河鉄道金田一温泉駅徒歩20分


       <沿革>
           南部氏庶流四戸氏の居城である。四戸氏は南部氏初代・南部光行の五男・宗清が四戸郷
          に分かれたことにはじまるとされる。一戸〜九戸のうち、四戸のみ場所が伝わっていないが、
          三戸と五戸の中間の浅水川沿いに比定されている。金田一城は宗清が築いたとも、子孫が
          浅水から移り住んだともいわれるがいずれも確証はない。
           天正十九年(1591)の九戸政実の乱に際し、政実は当時の金田一城主・四戸宗元の叔母
          を妻としていた。『日本城郭大系』では宗元の名を宗春とし、政実の叔母を娶ったとあるが、
          世代的に矛盾が生じ、信憑性は薄いと思われる。宗元は弟・金次郎の流言により秋田へと
          逃れ、九戸城攻めでは庶流とされる金田一氏が討伐軍に参加した。
           金田一城は上館・中館・下館の3つから成り、上館を四戸城と呼びならわすことから、ここに
          四戸氏が居住していたとみられる。他方で、『南部諸城の研究』によれば、天正年間(1573〜
          92)には切田小太郎が住したとある。切田氏は現在の十和田市下切田の気田館主で、乱後
          に恩賞として四戸氏の後釜となった可能性が考えられる。また下館は金田一氏の居館と伝え
          られる。
           その後の四戸氏については詳らかでなく、文禄・慶長年間(1592〜1615)には南部家臣の
          大光寺左衛門、次いで四戸氏庶流の中野氏が金田一城代となった。慶長二十年(1615)の
          一国一城令までに廃城となったとみられるが、詳しい経緯は定かでない。


       <手記>
           長寿寺および八坂神社背後の河岸段丘上の広い台地が上館(四戸城)で、そこから北東に
          細く伸びる尾根筋に、中館・下館と続いています。上館は一部が墓地となっているほかは畑地
          や休耕地、ソーラー畑となっていて、一画に四戸城の説明板が建てられています。
           私が訪れた3月上旬には、まだ下の写真の通り一面の雪景色でした。足跡もない新雪の上を
          もっこもっこと、足を冷たくしつつ裏手の空堀までは見られたのですが、ここでギブアップ。中館
          以下は機会があれば再訪したいと思います。
           ちなみに、金田一氏といえば言語・民俗学者の金田一京助・春彦父子が有名ですね。京助は
          盛岡の豪商の家に生まれたということで、やはり四戸氏庶流金田一氏の子孫なのでしょう。

           
 四戸城跡の銘板と説明板。
上館(四戸城)のようす。 
 同上。一面の雪景色でした。
上館背後の空堀。 
 同上。
同上。 
 同上。
上館からの眺望。 


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