九戸城(くのへ)
 別称  : 福岡城、宮野城、白鳥城
 分類  : 平山城
 築城者: 九戸氏
 遺構  : 石垣、曲輪、土塁、堀、虎口
 交通  : JR東北新幹線・いわて銀河鉄道二戸駅
      からバスに乗り、「呑香稲荷神社前」
      下車徒歩5分


       <沿革>
           南部氏の有力支族である九戸氏の居城である。九戸氏は南部氏初代・南部光行の六男・行連
          にはじまるとされるが、戦国時代後期に至るまでの系譜は諸説あり定かでない。築城年や経緯に
          ついても明らかでなく、一般には九戸政実が永禄十二年(1569)に鹿角郡奪還の戦功により二戸
          に所領を与えられて移ったとするものと、政実の4代先祖にあたる光政が明応年間(1492〜1501)
          に築いたとする2説がある。
           政実は武略に優れた勇将で、室町幕府からは主家・南部氏と同格の武将と見做されるなど強勢
          を誇った。当時の主君・南部晴政は男子に恵まれず、従弟とも甥ともいわれる田子信直を養子に
          迎えていたが、元亀元年(1570)に実子・晴継が誕生した。信直は養子関係を白紙に戻されたとも
          自ら辞退したともいわれるが、天正十年(1582)に晴政が病没すると、同年中に晴継も13歳で早世
          した。
           この過程については諸説紛々としており、晴継は父の葬儀の帰り道を暴漢に襲われたとする説
          や、信直が暗殺させたとする説、また信直が反乱を起こし、晴政・晴継父子を同時に殺害していた
          とする説などがある。いずれにせよ南部家中では跡目を巡り、信直派と晴政の娘婿である政実の
          弟・九戸実親を推す派の間で激しい対立を生じた。評議の結果、南部家重臣の北信愛や南長義、
          八戸政栄らの支持を得た信直が家督を継いだが、両派の勢力は拮抗していたといわれ、家中に
          大きな禍根を残すことになった。
           不満の収まらない政実は、周囲に自らが南部家当主であると吹聴し、信直の出兵要請にも露骨
          に応じないなどの態度をとった。しかし、天正十八年(1590)の奥州仕置によって九戸氏が信直の
          家臣であると確定すると、翌十九年(1591)に正月の参賀を拒絶して挙兵した(九戸政実の乱)。
          九戸方は総勢5千人程度であったといわれるが、その兵は精強で士気も高く、また日和見に傾く
          南部家臣が多かったことから信直の独力での鎮圧はほとんど困難であったといわれる。
           同年六月(1591)、豊臣秀次を総大将とする、奥州各地で起きていた一揆の鎮圧を含めた6万に
          及ぶ奥州再平定軍が編成された。豊臣軍は八月下旬には南部領に達し、九月二日に3万の兵で
          九戸城を囲んだ。籠城方は頑強に抵抗し、力攻めでは落城しなかったが、同月四日に軍監・浅野
          長政が九戸氏の菩提寺である長興寺の薩天和尚をして説得に当たらせると、政実はこれ以上は
          衆寡敵せずとして実親を城の明け渡しに残し、七戸家国・櫛引清長・久慈直治ら謀反に加担した
          南部家重臣と共に助命を条件として降伏した。
           しかし、約束は反故にされ、実親ら城兵は二の丸に押し込められて斬殺され、火をかけられた。
          その火と煙は三日三晩、夜空を焦がしたと言われており、実際に二ノ丸跡からは斬首された女性
          の人骨などが発掘されている。また政実らは、栗原郡三迫(宮城県)で処刑された。
           戦後、しばらくは蒲生氏郷が領内の押さえとして残り、この間に九戸城は近世城郭へ大きく改修
          された。その後、信直は九戸城を引き渡されると新たな居城として三戸城から移り、城名を福岡城
          と改めた。長政からはさらに南方の不来方(盛岡)を本拠地として勧められ、慶長三年(1598)から
          築城を始めた。
           盛岡城(不来方城)が落成したのは寛永十年(1633)とされ、信直の子・利直は元和年間(1615
          〜24)に福岡城から移ったといわれるが、詳しい移城時期は明らかでない。福岡城は、同十三年
          (1636)に廃城となったとされる。


       <手記>
           二戸市にあるけど九戸城。その理由は上述の通り九戸氏が二戸に新規築城して移ったからで、
          この経緯はひとつ北の金田一にある四戸城(金田一城)と同様のようです。福岡城と改称される
          のも、黒田長政によって筑前に福岡城が築かれるより前のことなので、南部家は黒田氏以前から
          福岡城を居城としていたことになります。
           そんな名称上のいわくはさておき、九戸城は白鳥川と猫渕川の合流点に接し、西の馬淵川との
          間に城下町が延びています。即ち西・北・東の三方が河岸で、南西も深田堀と呼ばれる自然谷戸
          を利用した空堀となった要害地形の平山城です。とはいえ、一般に九戸勢が頑強に抵抗した堅城
          といわれますが、実際の籠城戦は2日で終わっているという点は意外でした。
           本丸が総石垣かつ枡形虎口を備えた堅固な近世城郭となっているのが特徴で、九戸政実の乱
          後の蒲生氏郷による改修であることは論を待たないでしょう。どう見ても、南部氏の技術では構築
          不可能な完成度といえます。秀吉の天下統一の総仕上げとなった一揆の中心地ということから、
          権威の象徴としての意味合いも強かったでしょうが、福岡城もやはり南部氏の独力では築けない
          レヴェルの石垣技術であるように思われ、当時の後ろ盾であった浅野長政や前田利家の支援が
          協力にあったのではないかと推察しています。その背景には、奥州の雄・伊達政宗に対する背後
          の押さえとしての役割を、豊臣家や徳川家から南部家に期待されていたのではないかというのが
          個人的な見解です。
           本丸および二の丸の大手門から西側は、蒲生氏に改修されているとみて間違いないと考えられ
          ますが、大手門から東側および石沢館(外館)、若狭館の2曲輪は九戸氏時代の旧状をそのまま
          留めているように思われます。城下からは見えない部分なので、後回しにされたのでしょう。
           深田堀を挟んだ南西側の河岸には、松ノ丸と呼ばれる出城のような曲輪があり、信直の居館が
          営まれていたといわれています。内部は仕切り土塁で上下壇に分かれ、下段側に別途「大手門」
          と呼ばれる土橋が付属しています。石垣は用いられておらず、南部氏が増設したという蓋然性は
          十分に考えられるでしょう。信直としては、恩ある豊臣家の指示で改修された本丸域に居住する
          のは憚られる、あるいは族滅した九戸氏の城内に住むのは祟りが恐ろしいということだったのかも
          しれません。松ノ丸の外側台地上は在府小路と呼ばれ、武家屋敷が建ち並んでいたといわれて
          います。
           さて、私が訪れた3月上旬にはまだ新たな降雪があり、下の写真をご覧の通りの雪景色でした。
          歩けないわけではなかったものの、靴の中に雪が入るので足は冷たく、なによりせっかくの石垣
          がほとんど拝めませんでした(泣)。今も発掘や整備が続けられているということなので、ある程度
          進捗があったころに改めて訪れたいと思います。

           
 二の丸の堀。
同上。 
 二の丸大手。
二の丸のようす。 
 本丸の堀。
同上。 
 本丸追手門跡。
本丸のようす。 
 同上。
本丸石垣の上。 
 本丸からの眺望。
本丸石垣上から本丸堀を見下ろす。 
 本丸南西辺の枡形虎口。
虎口の石垣。 
 若狭館を望む。
深田堀跡。 
 深田堀から二の丸切岸を望む。
松ノ丸上段のようす。 
 松ノ丸の仕切り土塁。
松ノ丸下段のようす。 
 松ノ丸下段の石碑。
松ノ丸下段の土塁。 
 松ノ丸の空堀。
松ノ丸大手。 


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